細川先生のメルマガから
よい実践とよい論文──表現者の活動の自由へ
細川 英雄
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世の中には,よい実践か,よい論文か,という二つの基準がある。
一般論としては,
いるが,いわゆる研究業績が評価される世界においては,
よい論文が決定的だと思っている人が多いようだ。
しかし,
た身としては,そんなに簡単に,
ないという気分になっている。
まず,よい論文を書いているという人の実践は,
いからだ。だいたい,論文を書くことを第一にしている人は,
人に見せようとは思わないからだろう。
このあたりにすでに論文を書くということのエゴイズムが潜んでい
論文を書くことが目的化している人にとって,
ことなのである。そういう人は,
開することになれば,きちんとした教案をつくり,
践を行うだろう。しかし,それは,よい実践でも何でもない。
僕に言わせると,よい実践というのは,
ればならない。
・他者を管理せず,他者から管理されない自由を尊重すること。
・すべての解決に自己と他者の対話を尊重すること。
・
この場合の自己とは,
指す。つまり,それぞれの立場で,この3原則が実行されること,
重要だ。当然,実践活動そのものは,相対化され,
同時に,その活動そのものが,
実践である。
考えてみると,こういう実践を記述し論文化するのは,
だろう。たとえば,教案をつくるという行為そのものが,
目化し,それを順序だてるという作業だから,僕の言う「
わない。
このように考えると,本当によい実践をしている人は,
この場合の「よい」とは,仮説を立ててそれをデータで検証して,
な仮説検証型の論文ではないことはもはや明らかだ。
るさまざまなことばのエネルギィーをどのようにしてやりとりに巻
れを対話化しながら,コミュニティのあり方について,
くような,創造的な試みは,
あえて言えば,課題の提案・提唱に近いかもしれない。
具体的に描くことはとても創造的な仕事だと思う。
本当に,よい実践をしていたら,そういうエネルギィーは,
からほとばしり出て,
ネルギィーを表現することが,その人にとっての存在なのだから,
という形式にこだわること自体,
必ずしも論文という形態をとらずに,その人の活動は,
とって実行されるにちがいない。もちろん,その際に,
を問うことにはなるだろう。だからこそ,一口に論文といっても,
とを考えるような土壌がその論文掲載誌にあるのかどうかというこ
るのだろう。むしろ,
要になっていると思われる。
論文か実践かという二元論は,
いものだと思う。つまり,
している人は,本当は実践には近寄りたくない人たちであるし,
論文にならないと嘆く人は,本当によい実践ができないから,
ているのではなかろうか。実践とは人間の活動そのものであるし,
のは,その人の表現形態のほんの一部分に過ぎないからだ。
表現者の自由は,もっと過激に認められるべきであろう。「でも,
・・・」という反論がきっと出るに違いないけれど,あなたの,
では・・・」という発想そのものが,
くべきだろう。
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