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2015年6月

細川先生のメルマガから

よい実践とよい論文──表現者の活動の自由へ
                              細川 英雄
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世の中には,よい実践か,よい論文か,という二つの基準がある。

一般論としては,よい実践とよい論文は一致することが望ましいと考えられて
いるが,いわゆる研究業績が評価される世界においては,よい実践ではなく,
よい論文が決定的だと思っている人が多いようだ。

しかし,その実践を見ればすぐ化けの皮が剥がれるという体験を何度もして
た身としては,そんなに簡単に,論文のほうが実践より上だということはいえ
ないという気分になっている。

まず,よい論文を書いているという人の実践は,そんなに見られるものではな
いからだ。だいたい,論文を書くことを第一にしている人は,自分の実践を他
人に見せようとは思わないからだろう。

このあたりにすでに論文を書くということのエゴイズムが潜んでいる。つまり,
論文を書くことが目的化している人にとって,実践のよしあしはどうでもいい
ことなのである。そういう人は,もし研究授業や教員研修とかでその実践を公
開することになれば,きちんとした教案をつくり,それに沿って整然として実
践を行うだろう。しかし,それは,よい実践でも何でもない。

僕に言わせると,よい実践というのは,以下のような条件を満たすものでなけ
ればならない。

・他者を管理せず,他者から管理されない自由を尊重すること。
・すべての解決に自己と他者の対話を尊重すること。
自己と他者の存するコミュニティのあり方について責任を持つこと

この場合の自己とは,教師であり学習者あるいはその活動への参加者すべてを
指す。つまり,それぞれの立場で,この3原則が実行されること,このことが
重要だ。当然,実践活動そのものは,相対化され,批判の対象となる。しかし
同時に,その活動そのものが,新しい創造へ向けて動き出すような,そういう
実践である。

考えてみると,こういう実践を記述し論文化するのは,並大抵のことではない
だろう。たとえば,教案をつくるという行為そのものが,教えるべきことを項
目化し,それを順序だてるという作業だから,僕の言う「よい実践」にはそぐ
わない。

このように考えると,本当によい実践をしている人は,論文もよいはずである。
この場合の「よい」とは,仮説を立ててそれをデータで検証して,というよう
な仮説検証型の論文ではないことはもはや明らかだ。自己と他者の間を循環す
るさまざまなことばのエネルギィーをどのようにしてやりとりに巻き込み,そ
れを対話化しながら,コミュニティのあり方について,参加者全員が考えてい
くような,創造的な試みは,仮説検証とはまったく異なる次元のものである。
あえて言えば,課題の提案・提唱に近いかもしれない。そういう実践の内実を
具体的に描くことはとても創造的な仕事だと思う。

本当に,よい実践をしていたら,そういうエネルギィーは,その人の活動全体
からほとばしり出て,いろいろな表現形態をとっていくにちがいない。そのエ
ネルギィーを表現することが,その人にとっての存在なのだから,もはや論文
という形式にこだわること自体,それほど意味を持たないことになるだろう。

必ずしも論文という形態をとらずに,その人の活動は,さまざまな表現形態を
とって実行されるにちがいない。もちろん,その際に,書くという行為の意味
を問うことにはなるだろう。だからこそ,一口に論文といっても,こうしたこ
とを考えるような土壌がその論文掲載誌にあるのかどうかということが問われ
るのだろう。むしろ,そうした表現形態の可能性を大きく捉えた場の形成が必
要になっていると思われる。

論文か実践かという二元論は,こうした無限の可能性を排除してしまいかねな
いものだと思う。つまり,お利口さんとして姿かたちのよい論文を書いて満足
している人は,本当は実践には近寄りたくない人たちであるし,実践をしても
論文にならないと嘆く人は,本当によい実践ができないから,論文のせいにし
ているのではなかろうか。実践とは人間の活動そのものであるし,論文という
のは,その人の表現形態のほんの一部分に過ぎないからだ。

表現者の自由は,もっと過激に認められるべきであろう。「でも,世の中では
・・・」という反論がきっと出るに違いないけれど,あなたの,その「世の中
では・・・」という発想そのものが,あなた自身を貧しくしていることに気づ
くべきだろう。

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