« 母語教育ページ更新 | トップページ | 顔本 »

本当の私 なんて ないさ〜〜 楽な私 があるだけさ〜〜

ユリさま

コメントありがとうございます。
いつもはコメント返しをしないのですが、今回は特別。

で、私の考え。

私は、「本当の私」はない、と断言できます。

ただ、いつも出している私ではない私が、「本当の私」らしく見える、ということは
あると思います。
いつも出している私ではない私 は 大体なんらかの力で抑圧されているから
「抑圧されているものは多分本当の、本来の私みたいな気がする」ということだと
思います。

AもBもCもDももちろん私、でありますが、出方が違ったりすると、それぞれの比重や重みが違って見えるということはあるでしょうね。

先日、児言態の上原先生の遺著の出版記念会(『続感情教育論』)に出たのですが、
そのとき私の頭の中に「つい」ということばがかけめぐっていました。

「つい」出てくる私は、複数の私の一つには違いないのだけど、なんとなく、「本当の私」ぼく見えるでしょう。
この「私」は、児言態の言う、分母ではないでしょうか。「通性」とよんでもいい。

一番楽な、昔からつながっている、私 ということです。

「楽な私」という言葉が一番ぴったり来るでしょうね。

楽な私 って つい 出てくる やつね。

« 母語教育ページ更新 | トップページ | 顔本 »

プライベート」カテゴリの記事

コメント

ご意見、ありがとうございました。
「本当の私」はない、と言い切られた後の、
いつも出している私ではない私が、「本当の私」らしく見える、ということはあるだろう、
ということ、逆説的ですが、納得しました。
「つい」出てくる「私」、については考えたことがありませんでした。
「つい」という言葉は、「つい~してしまった」のように否定的なニュアンスで使われることが多いように思いますが、
言われてみると、「(児言態の)分母」や「通性」に繋がる気もします。

タイトルのように捉えると、それこそ「楽」ですね。
不毛な(?)<本当の私>探しから、一歩抜け出せたような気がしています。
これからも更新を楽しみにしています。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

« 母語教育ページ更新 | トップページ | 顔本 »