喪に服す、という考え方
東日本の震災(東北関東大震災)以来、さまざまな行事で、お見舞いの枕詞がつくようになった。
「この度の震災に・・・」
非常に個人的、限定的な行事であってもそれが「お祝い事」であれば、そのような枕詞がつく。
一つには、本当に気分的に「お祝い」する気持ちになれない、ということもある。
一つには、まわりが自粛気味なので、その空気を読まないと「空気を読めない奴」と排撃されるから、ということもある。
この最後の、「空気を読む」ことが大嫌いな人もいて。自粛自粛というなそんなのがファシズムだ!と叫びそうな、どこかの球団社長もいる。
あるういは、自粛自粛で商売があがってしまう、それが困る人や(どこかの球団社長)、それで景気が上がらないと復興もできない、と考える人も要るだろう。
この枕詞、ところで、みなさん、いつまでつけるつもりですか?
最初の理由なら、自分の気持ちが晴れたときになるのか。
二つ目の理由なら、空気を読む訳だが、そうそうお祝い事でなにか言うことはないので
空気を読むのも難しい。
また、地域も難しい。
このような枕詞を(空気を読んで使う場合)、時間と空間によって、使用期間に影響を受けるだろう。
東京だったら、3ヶ月ぐらい、広島だったら一ヶ月ぐらい、九州ならもう少し早く、とか。
私がこんなことをいうのは、この枕詞をつけなくなったとき、この震災がその個人の中で日常化される、と感じるからだ。
3月20日に地下鉄サリン事件の慰霊祭があった、というニュースがあった。今は誰も、「地下鉄サリン事件」のお見舞いの枕詞にはしないだろう。だけど、関係者にとってはずっと続いている。
私は、枕詞はつけないつもりだ。
明後日、卒業式がある。そこで、私は祝辞を述べる。そこには、枕詞は付けない。
みんなが枕詞をつけている間、私は、それをつけないことで、喪に服そうと考えている。
この国は、すばらしい復元力を持っているが、そのこと自体がすべて幸せにつながるかどうかは、私たち自身が、どれだけ自分で考えるかにかかっていると思う。
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