高校の授業と、すごい雨と、ことばと、眞も母子
先日から中国地方と北部九州地方は雨ばかりが続いています。
今日は、私が住んでいる東広島市でも土砂崩れが起き、お一人が亡くなってしまいました。
今日は、広島の北部の高校で、大学を紹介する出張授業をしに行ったのですが、一般道が通行止めだったり、高速道路が閉鎖になったりと、大変で、途中に水かさが増した川を見たドライバーのよめさんは、「きゃああ、川があふれる〜〜〜〜〜」とパニックになり、泣き叫び、これまた大変な道中でした。
行ってみたら(三次というところです)、雨は止んでおり、なんということもなかったです。
少し遅刻して、大学の紹介や、小学校の授業の模擬的なパフォーマンスをやってきました。
おとなしい中高生だったのですが、保護者が快活だったので、助けられた授業でした。
さて、雨。
最近の大学の授業で、
「ことばが世界を作るんよ」という話をしたとき、「雨」の例を挙げました。
空から落ちる、H2Oにすぎないものが、6月に降れば「梅雨」、秋に降れば「秋雨(あきさめ)」春に降れば「春雨(はるさめ)」
(雨を「さめ」と呼ぶことについては、いろいろおもしろい説があるようです。私は、「さめざめと泣く」の「さめざめ」と関係がある、という説はありかもと思います)
言葉が変われば、世界が違って見える。
というか。
世界を違って見たいから、言葉を変えるのかもしれないですね。
「風見鶏」については、「立ち向かう姿」の意味の方が古い、という話もあり、なかなか複雑です。
「風見鶏」という、実体に、「どんな幻」を見たいのかで、「立ち向かうかっこいい人」か「くるくる変わる日和見主義者」なのかが変わるのかもしれません。
見たい幻で、言葉の意味は変わる。とすれば、世界の意味は幻かもしれませんね。
でも、私は、世界がまぼろしとは思いません。
その点で、私は、唯物論者であるといっていいでしょう。
三分を「さんふん」と唱えるか「さんぷん」と唱えるかは、やはりそこで見たい(聴きたい)幻が違うのかもしれません。
さんふんと唱えたとき、どんな 幻が 立ち表れるのでしょうか。
なんか、 やわらかいけれど、 したたかな幻が、見えてきませんか??
ところで、私ここまで何度 幻 と書いてきましたが、
何度も
まもぼし と打ってしまっていました。
私は今は、
幻に
まもぼしの
幻を
見たいのでしょう。
まもぼしは
変換すると(by ことえり)
眞も母子
なります。
亡くなった母の幻でもみたいのでしょうかねえ。
マルクスも、母親の幻を、見たことがあるのでしょうか・・・・・・・・・・・
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