ふういん
ずっとね、封印していることがあります。
おしばい。
わしは、おしばいはするのはすきなんだが、そしてたぶん、えんじることもすきだけれど、みんなとわいわいするのがたぶんすきなんだが、ひろしまにきて、そんなかんきょうもなく、なんとなくしないでいるのでありました。
(さっき、夢野久作の文章を読んだので、ちょっと変。)
だいがくにつとめていると、「かけん」なる、おかみにだして、ほどこしをいただかねばならぬことがある。
ださなくば、うわやくに、きつくしかられるによって、たいそうめんどうな「しょじょう」をかかねばならぬ。
その「かけん」、わしはいっかいもとおったことがござらぬ。いつも、おぬしの「けんきゅう」はむつかしくてわからんわ、と、おかみにはねられるのでござる。
(だんだん、江戸時代になってきた!)
わしは、いつも「かけん」なる、おかみからのほどこしなどいらぬ、したがって「しょじょう」もいいかげんにかいておる、によって、とおらなくてもかたはらいたくはないわ、と、つよがりをいっておった。
さりながら、じつは、くやしうもあったのでそうろう。
このたびは、あまたのつれをかたらいて、「おしばいとおしえ」の「けんきゅう」をだしてみんとて、「しょじょう」を ねんごろにつくりけり。
とおりたく、つよくつよく、こころにねんじたるとぞ。
(平安時代になった!)
「おしばい」に、ふたたび、めぐりあはむとしけるなり。
こは、われのこころに、あらたなるなみのおこりたるがためなり。
ふういん、とけたるによりて、おこりたることならむ。
にしても、なんで、封じていたんだろうね、演劇への思いを。
研究にしちゃいかんと思っていたんだろうか。
最近講演や授業でワークショップをやるようになって、その面白さがよみがえった来たのだろうか。
そして、そのかたらいたる仲間は、みなさん、窮地の、ちがった旧知の人々で、それだけでわくわくするのであります。
まさしく、50にして「店名を摺る」ですなあ。
今度新しく出すお店の看板の字を、版画で摺った、それが、おしばい、だったということかねえ。
うふ。
最近のコメント