私の耳は、ロバの耳。
ではなく、
私の耳は、貝の殻。
でもなく。
私の耳は、大きい。
のです。
ほら。
顔の立ての長さの半分以上が、耳。
困るのが、散髪。
私はなんども、耳を切られました。
さて。
私は、散髪に久しぶりに行きました。
行ったのは行きつけの、ところ。
このブログでは何度も書いています。
福屋広島駅前店、10階にあります。
行ったときは満員で、携帯電話を持たされて
その10階にあるジュンク堂で時間つぶし。
その日は午後から仕事があり、時間が押し迫っていたので
携帯を握りしめてお店に戻り、
「あのう、もう時間がないんで・・」
と言いかけたら、
「あ、もうすぐです。どうぞ」
と、言われました。
あ。
あ。
新しい、髪切りねえさん。
まっしろなワイシャツ?をきて
まっしろなパンツ。
腰には、かっこいい道具入れと底に入っている、いろんな鋏や櫛類。
細い手、細い足。
長い指。
事務的なことしか言わないんだけど、優しい語尾に。
惚れてしまいそう。
ってな方に、髪を切ってもらうことになりました。
(よかったああ、髭もそり、髪も洗っていて・・・)
床屋に行くのに、ふと、何かしら思うことがあって、準備していたんですね。
いよいよおねえさまの髪切りが始まりました。
(どきどき)
「はい、倒しまあす」
え?もう?
女性の方はご存じないかもしれませんが、床屋ではふつうは
髪を切る→顔を剃る→髪を洗う
となります。
なのに、最初に倒されて、びっくり。
ひや、ひや、ひや。
お顔の三カ所になにか落とされた!!
そのあとは・・・いきなり・・・・至福・・・・
なんと、おねえさまの、細い指で、いきなりの、フェイシャルマッサージなんです!!!
即マッサージ。
これは、ほんとに驚きました。
よほど、よほど、よほど、顔が脂ぎっていて、触るのも嫌だからそうされたのでしょうか(泣)。
細い指が、なんどもなんども、くるくる、さわさわ、のにのに、ついんついん
と、お顔を撫でます。
愛撫。
ということばが、私の胸に迫りました。
いきなりの心地よさに酔いながらマッサージが終わり、
椅子は戻され、いよいよ髪切りへ。
今日は思い切り切ってもらおう。
だいたいこういうときは、男の髪切りさんは、バリカンを使うのですね。
ところがこのねえさんは、丁寧に丁寧に、切っていかれます。
その切り方。
なんとなく、違う。
あの男(ひと)と違う。
と、切られながら、おねえさまに身を(頭を)ゆだねながら、考えました。
切り方というか、頭に関わる所作が、男の人と違うんですね。
どこがちがうんだろう。
おねえさまの切り方の、まさしく、「髪切り愛撫」にこれまた心地よく身も心もとろけながら、頭の片隅では考えていたのです。
まず違うのは、櫛を髪おさえに使うこと。
私のような短い(薄い)髪でも、切る時に、他の部分の髪の毛が邪魔になるということがあります。
男の人なら、櫛か指でおさえつけたりするのですが、このおねえさまは、櫛を頭に挿して止めなさるのです。
鏡を見ると、妙に大人になった禿(かむろ)みたいになっています。
確かに、これも違う。
しかし、もっと決定的なことを見つけました。
それは
余韻がある
ということなのです。
切り方に、余韻がある。
つまり。
髪に鋏を入れ、ぱちんと切る。
男の人なら、さっと鋏を抜いて、次に切る場所へ。
ところが、このねえさんは、鋏をゆっくり、ふっ と抜くのです。
これが、なんとも言えない。
何とも言えない余韻を生み出します。
これを髪切りの間繰り返す訳ですから、たまりません。
鋏を抜かれるときを待ってしまう、
そんな私が、そこにいたのです。
これは、驚きでした。
髪を切ることが、
いや、鋏を抜かれることが、こんなにも心地よいものになるとは・・・
そのあと、おねえさまには、顔剃りもしてもらい、頭もマッサージしてもらい
髪も洗ってもらったのです。
こんなに直接触れ合ったわけですが(合っていはいないか)
一番心地よかったのが、髪を切られるときの、鋏が抜かれる瞬間だったのです。
言語のないコミュニケーションの中で、「鋏を抜く」ことが持つ意味を
追究したのは、私が初めてではなかろうか(笑)。
でも、このおねえさんは、確かに、なにかを言っています、「鋏の抜き方」で。
きっと、修業中や労働中に培った「コミュニケーションスキル」なんでしょうね。
感情労働、という言い方がありますが、これは「余韻労働」と呼んでもいいかもしれません。
教師も、余韻労働なのかなとも、思いはじめています。
鋏の抜かれた余韻とともに。
髪が伸びるまで、この感覚が残ることは、とてもすごいことです。
このおねえさん、ただものではありません。
指名、しそうです・・・・・
(このお店にはヘルプできたそうです。いつもいる店を思わず聞いてしまいました。でも、行くのなんだか恥ずかしいなあ・・・・)
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