みなさまご心配をおかけしています。
やはりここに載せるべきではなかったのかと思いつつ、自分の私生活を表現として見せて行くためにこのブログを作った以上、やはり載せようと思いました。
それに、今もそしてこれからもご迷惑をおかけすることになるでしょうから、そのためにも状況を関係する人にお知らせする意味も込めて書きます。
入院して10日以上経ちます。一時期は呼吸も荒く熱もありかなり危なかったのですが、今は危機を脱したようです。
しかし、ずっと意識はなくいつ急変するかわかりません。
今携帯に向かって打っているよこで、DS-7100が呼吸が止まったことを知らせるキンコンを鳴らしています。これはずっとそうなので、気にはなりません。
空いている時間を使って私と妻と帰って来ている長男(こういうときは頼もしいです)とで分担して、病院につめています。
今私は意識のない母の横にいます。
母と二人暮らしになったのは私が13歳、母が45歳。それから曖昧な母子家庭(父親が出奔して行方不明だったけれど離婚していなかった)として結婚する直前までふたりで暮らしていました。
私はとにかく家を出たかった。けれど家を出るその家が曖昧だった。結局母と二人で京都に出ることになりました。結婚する直前まで、私と母は暮らしたのです。
結婚してようやく私は母と離れて暮らすことができました。母は、一人でしか暮らせない人です。自分が頼りたい人を試すかのように罵りそしてその人が離れていく。その繰り返しでした。私が自分の幸せを手に入れるためには、離れて暮らすしかなかったのです。私が25歳、母が57歳の時でした。
それからは、なるべく近くに住むことで、また子ども(母にとっての孫)を行き来させることで、おだやかな日々が続いたと思います。それでも私は一緒に暮らそうとは思いませんでした。なにもかも失う気がしたからです。
突然、母がころがり込みました。パーキンソン病にかかったのです。同居が始まりました。これは地獄でした。
際限のないいさかいが毎日続きました。結局私は母を追い出す形で再び別居を始めました。
それからはほとんど行き来をしなくなりました。
広島に行くことが決まったとき、母が歩く姿を見ました。パーキンソン病特有の、前屈みになって歩く姿。
それでも私は「一緒に広島に行こう」とは言いませんでした。
私が、そして私の家族が広島に来て、それから母も広島にやってきました。もちろん一人暮らし。
しかし、もう母は一人で暮らすことはできなくなっていました。
台所に座り込み、すべての鍋と食品を床に並べ食事の支度をしようとする姿をみたとき、それでも私は一緒に暮らそうとはいいませんでした。
母を有料の老人ホームに入れて介護しながら生活する途を選んだのです。
そのホームでの暮らしは、共同生活でありながら、それなりに楽しかったようです。
自分のところに来るセールスマンが気に入り、そのセールスマンが私の妻とできているという妄想を持つようになるほどに、ある意味元気でした。
少しずつ衰えていき、とうとう病院に。
病院で意識を失ってしまいました。
今、私は母と今までの中で一番穏やかに一緒にいると思います。
それが病院であることが、少し悲しいです。
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