幸せとはだれのため
なのでしょうか。
今日、ゼミの時間にある学生と話をしたのですが。
その学生はとても気配りのできる人で、いいやつです。
家族のことも大好きで。
でも、周りの人や家族の人のことばに、どうも流されてしまう傾向があって。
自分の中に、いろいろな声が充満してしまっているようで。
その中に、「私だけの声」も、か細くは聞こえていることが、よけいに自分を苦しめる。
家族や自分の周りの人の声を聞くことで心が落ち着くことで、自分が安定する。
確かに、「いい子」です。いわゆる「よくない、いい子」ではあります。
でも、そのことをもってその学生をどうして責めることができるでしょうか。
それが、その学生の生きてきた術だし、結果なのです。そして、たしかに周囲は幸せになり
自分もそのことで安定してきたのですから。
ただ、この生き方はいつかは破綻が来ます。
社会は、不安定の極みですから、不安定の極みの「さまざまな声」を聞いていると
きっと、気が狂ってしまう・自己が分裂しきって崩壊する・堅いからに閉じこもってしまう でしょうから。
一方で。
周囲をどんどん不幸にする、わがままな、なのに「仕事ができる」と言われる人もいますね。
周囲を破壊して、場合によっては組織をも破壊して、その人だけが生き残る。
その人にはなぜか周囲の人もブレーキをかけない。場合によっては人気があったりする。
でも、確実に、その人が属している組織は、崩壊していく。その人を賞賛している人々が属している組織が崩壊しているのに、その人のせいで崩壊しているのに、なぜか、その人を賞賛している人は、その人がなんとかしてくれると思っている。そして、組織もろとも、破滅する。
教育とは、前者の人を勇気づけ、後者の人を叱るために、あると思いたいです。
恐れずに。
今日のカナダ写真の一枚。
附属小学校の算数の時間。
グラフの単元。
自分たちが行った「food drive」(恵まれない人に食料を寄付する運動。カナダではどこでもだれでもやっているし知っている。日本でもそうでしょ?と先生に言われ、絶句した)の食料別の統計。これをグラフにして、カナダ全土のグラフと比較するところへと向かうのです。
本物の経験主義は、筋金入りです。
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