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2006年5月

終わりはなんと・・・

5月26日から29日まで、岩手の全国大学国語教育学会に行った記録でございます。

終わりはなんと・・・なんです!!

乞うご期待!!

ここクリックしてね

なんか悲しい・・

というのは、ふだんそんなにコメントがあるわけではないのに、

血液型の話だと、こんなに・・・・

なんか、コメントの工夫をしなくても、話題を「論争的」なものにすれば、

コメントやアクセスは増えるんだなあ、と、ちょっとがっかり。


というのは、冗談。

実は、本当に展開したい話をこれから書きます。

(前のブログ、いい前ふりだったでしょ?(笑))

言説分析、というものがあります。

世界はことばで作られている、だから、ことばを分析すれば、世界が見えてくる、という

分析方法で、人文社会系の学問ではさかんに(最近は下火かな?)行われています。

言説分析の基本は、「本質などない!」ということ。

全ては、言葉で作られる、その対象を語る言葉で作られる、ということです。


これを、血液型で当てはめてみましょう。

A型やB型という血液型があったとしても、それぞれの血液型特有の性質(つまり本質)というものはあるのではなく、A型ってこうだよね、B型ってこうだよね、という語られる言葉によって、

「A型はこうである」「B型はこうである」ということが作られてしまう、ということです。


これ、血液型にはとてもあてはまる話です。


つまり、血液型についての性質は、言説(言葉によって作られた像)と言えるでしょう。


と、ここまでは教科書的な話。


私たちは、言葉によって作られた言説に、相当縛られているようです。


言説が実体化し、それに自分や社会が左右される(例えば、あの人はB型だから・・・)のようなもの。


そうなると、なんらかのラベリングがされてしまうわけで、そのラベリングが実体化する可能性もあるわけです。

実体化というより、行動化、と言った方が正しいでしょうか。

「A型って、繊細だけど神経質だよね」という言葉が、言説化し、次にはラベルとなり、ついにはその人の行動を、そのようにしてしまう、そういうことがあり得ます。

というか、血液型の話は、どうもそういうことだと考えています。


日本にいる民族・人種が(これも言説だと思いますが)少ないから、血液型によるラベリングに走るのかもしれません。

それほどに人間は、「分類する欲望」を持っているのでしょう(分類する欲望は、言語によって生まれてしまったと私は思います。この辺は、丸山圭三郎かな)。


言語を持つ以上、人間は、分類したがり、です。

それが、さまざまなラベルを生み出すのだし、ラベルの根底には、言説があるのでしょう。


そのような欲望と向き合うためのはどうすればいいのでしょうか。

人間は言葉を持つ以上、この欲望から逃れられません。

血液型(による性質分析)を信じなくても、必ず、なにかのラベリングを信じています。
(国歌とか、民族とか、地域とか、祖先とか、一家とか・・)

そのようなラベリングには、いいものと悪いものとがあるのでしょうか。

そして、その善し悪しを決めるのは?


人間が分類する欲望から逃れられないとしたら、「適当に言説やラベリングに付き合う。おもしろがる」というふるまいをすることは、わりと健全なのかなとも思うのです。


血液型は、そんなあそびにはならないのでしょうか。

国や民族といったラベルをあまり信じていないこの国の多数の住民が、「なにか別のラベリング」に走ることを、私は極度におそれています・・・・・・

血液型の話

私もそんなに信じているわけではありません。

でも、でも・・・・


先日、4年のゼミ生(女子2名)と、たまたま雑談をしていました。

そのとき、「先生の血液型何型?」と聞かれたわけです。

私は、A型なのでそう答えると、「やっぱり!」と言います。

え?どうして?

私たちは、A型、というのです。


ふむふむ。で?


先生、うちの4年のゼミ生の血液型、知っている?


え、知らんけど。


えっと・・・と言い出した7名の血液型は、なんと、一人もB型がいない!!!!


そして、一人の女子が言うのです。

「私、B型の人と会わない。だって、マイペースすぎるもん!」

と、言うやいなや、もう一方の女子が、

「ねえねえ聞いてよ、私の彼氏のこと、こんなことがあったんよ」

と言い出した話は、ざっとこんな感じ。


彼女とその友達2人、彼氏とその友達2人、の計6人でファミレスに行ったときのこと。

気を使って彼女は、彼氏の前には座らず、彼氏の前には、ある女子(B型)が座りました。

(もちろんこの話の流れからわかるように、彼氏もB型)

すると、この二人、横の4人そっちのけで。二人だけでもりあがってしまったとのこと。

その後カラオケに行っても、二人で目配せしたりして、親密だったらしい。

ただ、これこそ問題なんですが、二人とも悪気は全くない。

つまり、彼女に悪いことをしたとは思っていないみたいなんです。


彼女はそれで1ヶ月ぐらい悩み、二人に怒り、なんとか収まったみたいですが、怒りはまだ心の底に残っています。

それを聞いた、ゼミのもう一人の彼女は、言いました。

「B型だから仕方ない!」

このコメントに、私も同意してしまいます。


あ、このあたりで、完全にB型の人、怒りますよね。それはわかります。わかりますとも。


でも・・・・・


なんです。


血液型って、まやかしだ。と思う気持ちの一方で、


合う合わないというのもありそうで・・・・・


うううむ。


でも、なんか、おもしろい。


ちなみに、私の家族も、みんなAかOです。


これ、ちょっと恐いネタだなあ・・・・

サーカスのライオン

という話があります。

東京書籍の3年生の教科書に載っています。

昔も載っていて、いったん消えて、復活したのです。


私が編集に携わっている教科書会社のライバルですが、

やるなあ、とほんとに思いました。


これ、やりようによって、とてもいい授業ができると思います。


老いぼれたサーカスのライオン。

やる気ない毎日。

ある日男の子に出会う。

その男の子は、なぜか自分を慕ってくれる。認めてくれる。友達として対等に扱ってくれる。


ライオンは、自分を取り戻します。アフリカで風のように走っていた自分を。

男の子の家が火事になったとき、ライオンが風となって男の子を助けたのは、必然でした。

・・・・なみの作品なら、このあとにお墓でも作るでしょう。


でも、川村たかしは、違います。

このあと、ライオンがいないサーカスの、火の輪くぐりの場面が最後に来るのです。

観客は大きな拍手を、ライオンのいない舞台に向けて、行っています・・・・・

この教材の授業を、私はなんども見ました。


今日もある学校で教材研究を行いました。

とてもいい話し合いができたと思います。


その学校と私とで、次の3つの概念でとらえてみようということになりました。

<転換>・・・・人物の世界観の変換です
<発端>・・・・ある人物の<転換>を起こすきっかけとなる人物との出会いです。
<クライマックス>・・・・<転換>の結果起こる出来事です。

この3つの概念で、多くの教科書に載っている作品は捉えられます。

授業は、しかし、この3つのを捉えて終わりでは、だめです。それでは、まるで、食パン・・・あ、それは、トーストか・・・・なんかよく似た名前の、会・・・・になってしまいます。

<発端>から<転換>に至るまでに、なにがその人物の中に起こったか、そのような<転換>は、相手の、どんな心、行動によって起こったのか、それを、考え合うことが、授業の醍醐味でしょう。


老いぼれたライオンは、なぜ<転換>できたのか、なぜ、男の子と出会って、そんな<転換>が起こったのか、男の子の、何が、それを起こしたのか・・・・


そして。


ライオンが死んだ後、男の子は残されます。実は、男の子の<転換>は、この最後の場面が<発端>となる、と私は読みます。

男の子の、これからの物語は、まだ書かれていない<クライマックス>に向かって、進み始めたのです。

その男の子は、教師であり、学習者でもあるのでしょう。


願わくは、学習者が頭に描いた、この「サーカスのライオン」作品のイメージ世界を、こわさず、深め広げる授業をしたいものです。


せめて、せめて、文学教材を授業するなら、どんなことをしてもいいですが、上のことはお願いしたいです。


そうしないと、文学教材から、子どもはますます遠ざかるでしょう。

そして、虚構から、現実を乗り越える力を得る術を、どんどんなくしてしまうでしょう。


「サーカスのライオン」は、作品です。

教育内容と、それを実現する方法は、作品の外部の、教師(と学習者)が作るのです。

泣きながら、作るのです。

みなさんも、教育関係者でない方も、ぜひ、一つの作品を読んだら、その作品を深める<授業>を考えてみて下さい。

きっと、その作品により深く向き合うことができると思いますよ。

怒りにまかせて書いた文章

遅ればせながら、ある人の書いた本について書評プラスαを頼まれたので読みました。

時間の無駄でした。

で、怒りにまかせて書いた文章の一部です。

(なんの本かは、トラックバック参照)

1.はじめに−いいかげんにしてほしい−

私は、教科書の話をします。いえ、私がほんとうにしたいのは、授業の話であり、もっとほんとうに話したいのは、ことばの学びの話です。でも、今あたえられたテーマによれば、教科書の話をしなくてはいけません。しかも、国語科の教科書の話です。
 しかたがないから教科書の話をするという、とんでもなくいいかげんな言い方をしているのは、気が進まないからです。なぜ気が進まないかというと、教科書の話は、授業の話やことばの学びの話とは、ちがう、からです。ちがうどころのさわぎではありません。全く別物です。そして、それらを混同されてしまうことが多いからです。
 教科書は本のことです。本はどこかで読まれます。読まれるのは授業の場が多いのですが、授業以外でも読まれることが多いでしょう。国語科の教科書は、国語科の授業で使われることが多いです。だけど、国語科の授業は、国語科の教科書と同じではありません。
 それは、映画とその原作の違いとは、まったく違います。映画は原作のバリエーションです。でも、国語の授業は、国語科の教科書のバリエーションではありません。どこの世界に、国語の教科書をただ読むだけで国語科の授業が成立すると思う人がいるでしょうか。
 もちろん、社会科の教科書や算数の教科書をただ読むだけでそれぞれの教科の授業が「成立する」ということは可能です。なぜなら・・・こんな初歩的な、教育学では初歩中の初歩のことをここに書かなくてはいけないのか・・・・社会科や算数の教科書に書かれているのは「教育内容」だからです。「教育内容」だから、それをそのまま読んでも授業になりうるのです。なぜなら、授業とは、「教育内容」を伝える(という人もいれば、によって認識を喚起させる、という人もいるでしょう。)ことだからです。
 しかし、国語科の教科書は「教材」です。(ああ、ここで藤岡信勝の古典的な教授学の枠組みをひくのは本当に気が引けますが、知らない人がいるから仕方がないですね。)社会科の資料や、算数のおはじきやタイル、理科の試験管と同じです。おはじきをいくら精査しても算数の授業にはならないでしょう。
 国語科の教科書は、算数のおはじきと同じです(教授学の枠組みでは。あるいは、授業という構造における価値の点では。このへん、構造主義の初歩です。)算数がおはじきという「教材」を使って、たとえば「10のまとまり」という「教育内容」を教えるのと同じように、国語科では、教科書中の文章(ふつう国語科では、ちゃんと「教材」といいます。えらいでしょう!)を使って、なんらかの「教育内容」を教えるのです。
 算数で大事なのは、何でしょうか。おはじき でしょうか。もちろん違います。大事なのは、「教育内容」である「10のまとまり」です。もちろん、おはじき業者にとっては、おはじきというのは、大きな関心事であるでしょう。しかし、通常、算数の授業には、おはじき業者は関係しません。
 理科で大事なのは、何でしょうか。試験管でしょうか。もちろん違います。大事なのは、「教育内容」です。もちろん試験管業界(これがあるんですね。理科教材を専門的に扱う業者があります)にとっては、試験管というのは、大きな関心事であるでしょう。しかし、通常、理科の授業には、試験管業界はからんできません。
 国語科で大事なのは、何でしょうか。教科書の文章でしょうか。もちろん違います。大事なのは、「教育内容」です。もちろん教科書の文章関係者にとっては、教科書の文章というのは、大きな関心事であるでしょう。しかし、通常、国語科の授業には、教科書文章関係者はからんで・・・くるんですねえ、これが。
 まあそれはそれとして、国語科の授業にとって大事なのは「教育内容」です。それを教えるための道具として「教科書の文章」つまり「教材」があるのです。
 反対にいえば、「教科書の文章」があるからといって、「教育内容」が確定するわけではありません。試験管という教材が理科の授業の教育内容を確定するわけもなく、おはじきという教材が、算数の授業の教育内容を確定するわけもないのです。
 ただ、同じ教材といっても、算数のおはじきや理科の試験管と違い、国語科の教科書の文章は、社会科の資料に近い性質を持っています。どこが違うかというと、教材の性質が教育内容に影響を及ぼす力がより大きいということです。おはじきは教材としては、いろいろな教育内容の授業に使えます。試験管も同じです。しかし、ある時代の資料という教材は、それが使われる授業の教育内容をある程度限定するでしょう。平安時代の資料を使って、室町時代についての授業をすることは難しいでしょう。同じように、国語科の文章も、それを使う授業の教育内容をある程度制約するのです。
 かといって、国語科の授業の教育内容を確定するわけではありません。『羅生門』という芥川の作品が教科書に載っていますが、この教材『羅生門』の教育内容は、教材の内容に制約を受けながらも、さまざまに立てることが可能です。極端にいえば、『羅生門』という教材を使って、漢字と語彙の教育内容の授業をすることも可能なのです。それが授業上、カリキュラム上、学習者の学習の進行上に必要なら、教師はそのような授業を行うでしょう。そのことについて、『羅生門』という文章に関係する者は、とやかく言えないのです。「当事者」ではないのですから。試験管業者は理科の授業の当事者ではないように。
 こんなことは、とうのむかしに私も書いたことでした。教材と教育内容は違う、こんな初歩中の初歩のことから語らなければならないとしたら、悲しいことです。いえ、教育関係者にとっては、こんなことはそれこそ初歩中の初歩でしょう。たぶん、国語教科書の中にある文章に関係している人々が、聞く耳を持っていないのかもしれません。だって、おなじことを繰り返すのですから。
 国語の教科書は、教材です。教材をいくら分析しても、教育内容は確定できません。教育内容は、教科書の外部からやってくる、他者、なのです。いいかげんにしてください。

mihimaru GT について

ポッドキャストでmihimaruネタだい!!

ファンの心理

あのねえ、私最近、ファンになったんですよ。

正確に言うと、ファンになったことを自覚したんですよ。


なんのファンか、というと、二つ。


一つは、広島カープ。

私ねえ。関西生まれで名古屋に行ってそれから広島にきたんだけど、小さい頃は乳の、あ違った、父の影響で、阪神ファンだったわけですよ。

でもねえ、ていたらくの日々が続き、単なるアンチ巨人に陥り、社会党が没落していくのを横目に見ながら、泣く泣く阪神ファンであることを忘れていったわけです。

名古屋に行っても、もちろんすぐに中日ファンになるわけでもなく、でも阪神ファンであるわけでもなく(関西以外に行くと、そこの人から「阪神ファンでしょ!」と関西人は決めうちされる傾向にありますね)だんだん野球そのものからはなれていったわけです。

それでも、中日やら名古屋グランパスやらには「中日新聞」を通じて少しは親近感もわいてきたので、もしかしてファンになったかも、とも思っていました。


広島に来て、7年目。(名古屋には8年いました)

私、どうも、カープファンになりかけているようです。


確かに「中国新聞」がカープ情報ばかりということもあるでしょう。
地元の人々から広島カープの話を聞くことが多いと言うこともあるでしょう。

でも、親近感だけでは、ファンにはなれないことは、名古屋時代にわかっています。


私、どうも、広島の人間になりつつあるようです。

つまり、ここで生きている、ようなんです。


たぶん、関西時代や名古屋時代とは比較にならないぐらい、広島県内を回りまくっている(まあ仕事がらみだけどね。でも訪れた学校は、たぶん50校ぐらいにはなるでしょう。地域も芸北以外は全て行っています)

そして、最近は学生も広島出身が多く、また、研究会でお話しする先生方も広島の方ばかり。


ううむ、これだけだと、親近感みたいな感じがするかもしれないけど、それではないんだよねえ。


親近感、というのは、まあ、友人関係、という感じ。


でも、ファンというのは、恋愛関係。


生きていくのに、必要!!必須!!絶対!! という感じ。

まだそこまではいっていないけど、広島カープの勝敗がこんなにも気になるなんて言うのは、

やっぱり、恋愛モードに入っているようです。


も、一つ。小さいけど、サンフレッチェも、小恋愛モードです。(だって、サンフレ駒野がWカップに行けることがうれしいだから。その人、よく知らないんだけど(笑))


あと、一つは、前にも書いていた。mihimaru GT。

私、今まで芸能人で(なんか古くさい言い方)好きになった人は、AV系の女優しかいなかったんです。

その心意気と、その歌舞伎ものの精神が大好きで、だからファンになっていたわけです。


私はじめて歌手で(これまた古くさい言い方!)ファンになりそうです。


ああ、これって、ほんまに恋愛ですね。


(あの、こういうこと書くと、どうせおまえは mihimaru のhirokoさんに惚れたんでしょ)と言われそうですが、そして確かに、その面はありますが、それだけではない!!!!


なぜなら、miyake さんにも、どうも私、惚れているんですよ・・・・・


親近感は、ファンではない。


なら、それは、何か。


たぶん、欠落感、かな。


あと、ラカンがいった(と聞いたような気がする)「あこがれは、あこがれへのあこがれ」

かもしれません。


あこがれ は  飽く がれ  としたら。ますます。

黒テント、見た

なんて言っても、芝居好きの人でも、もう知らない人が多いでしょうね。

黒テント。

黒色テント68/71と言っていた時代からの、劇団。

今日、よめさんと見に行きました。

詳しくは、こちら


この「ど」という芝居、吃音がテーマの芝居だったのです。


よめさんの友人が吃音者であり、私の周りにも何人かいるので、かなり身近なこととして見ました。


原作は、小寺和平の「ど」。

既にいくつもの劇評がネットで見られます。

例えば、これ

あるいは、これ

まあ、芝居の常として、賛否両論でしょうか。

私は、おもしろかったです。

25年前から見ていた劇団なので、ノスタルジーもあります。

この劇団の劇の作り方もなじみがあります(役者が急に語り手になり、また役者になる、みたいなね)

演技の質も高い。

ちょっと左がっかっているのも、好き。


でも、でもね。


うちの若いゼミ生の見に来ていたのだけど、端的に言っていました。

「長い!」


確かに、休憩なしの1時間45分は、長い。

私は長さを感じなかったけれど。それは、この劇団のしばいの仕方を見慣れているせいでしょう。

特にこの劇団の芝居は、せりふがイメージ的でない(頭で考えないとわからない)し、筋立てもイメージ的でない(思想的、悪く言えば頭でっかち)

そういう風に考えると、

やはり、

古い。

こう結論づけざるをえない、のです。

どもりの話で、1960年代。あと、部落差別や朝鮮人問題が、ふわっと顔を出す。

60年安保。歌声喫茶、名曲喫茶。

もちろん、もちろん、これらの道具立てが、古い、のではありません。

それらの道具立ての、現在への、よびかけの仕方が、古い、のです。

彼らの芝居の作り方は、20年前では、前衛でした。

今は、後衛なんですね。


ただし、彼らの芝居の作り方が、使い古されたわけではありません。

この国の、芝居の現状から考えて、それはありえません。

たぶん、他の劇団に少しは広まりつつも、だんだん、古びていったのでしょう。


古びないようにするためには、今、に合わせては、もちろん、だめ。

前衛、でありつづけることが必要です。

mihimaru GT が、「hip-pop」と名付けて自分たちの音楽をぐちゃぐちゃしながら作ろうとしてることに、学びたいです。


歴史は、みごとに、動いていました。

私は、まだ、作られていないことに、よろこびを感じました。

>新・広大製さん
一度、研究室にきてください。というか。メールちょうだいよ。まるで、メールみたいになっているよ(笑)。メルアドは、about 見てね。

連休明けの1週間は・・・

しんどですねえ。

ほんとに今週は、連休明けと言うこともあり、夜が全て遅かったと言うこともありで、

つらかった一週間でした。

こういう仕事ですから、人間関係でいろいろなことがあります。

まあ、どんな仕事でもそうでしょうが、教員という仕事は、単にその人(多くの場合学生)と普通にコミュニケーションするだけでなく、その学生が前に歩けるようにしよう、なんて、「教育的配慮」をしながらコミュニケーションすることが多いので、単なる「無駄話」でも、いや単なる「無駄話」こそ大切なこと、と考えているために、あまりにそのようなことが重なったり、自分に余裕がなかったりすると、すりきれてしまいます。


学生とならまだいい(というか、どっちかというと学生とだけしゃべっていたい・・)、大人とはほんとに難しい。

大人の場合は別に「そのひとを伸ばして上げなきゃ」なんて考えなくてもいいし、そんなおこがましいこととんでもないはずなんですが、せっかくコミュニケーションしているんですから、お互いが気持ちよくなるように話そう、なんて考えると、別のところで疲れてしまいますね。


こういうときに、思いがけない人からのメールやら手紙やらは、ほんとに、心が温かく、励まされます。


一つは、私の35年来の「悪友」からの、メール。

苦しいことがあったことを、素直に話してくれました。

(メールだけど、こういうメールだと、「話す」ということばがぴったり来るんですねえ。「書く」ということばは使いたくない・・)

彼とは、決して「親友」とは呼べないんだけど、たぶん、一生、心の中にいる人でしょう。
(それを「親友」と呼ぶのかもしれませんが)


もう一つは、岩手からのメール。

私は、28日に岩手大学で、授業をするのですが、2年前に授業した子どもたちともう一度会うことにしています。

その当時の担任の先生からのメールが来ました。

そうです、28日は、今は担任から離れているその先生が、一日だけ担任に復活するのです。

そして、「なにかしておくことはないですか?」というメールでした。

私、授業する前から、泣いています。

子どもたちも、みんな、私の授業を覚えてくれているんだそうです。

これだけで、十分です。


2年を経た、第2時(教育用語で。授業計画の2時間目、という意味です)が始まります。


教育は、人間関係。しんどいけど、ここで生きていく意味は、あります。


mihimaru GT と つっこみ

フジテレビ系でやっている、「HEY!HEY!HEY!」を見て思いました。

ああ、これから歌手のトップを目指す人は、「とっさのコメント力」が大事なんだな、と。

まあようするに、mihimaru GTさんを見たかったから、この番組を見たんですけどね。

今ファンになりかけの僕から見ても、あの扱いはかわいそうだな、と思いました。

3年やって今オリコン5位のユニットと、企画もんのグループとを一緒に扱うかなあ。

いくら同じ局でやっているからといって・・・

そしてあそこで大きく扱われることで、つまりは、ダウンタウンさんのことばにうまく応酬できることで、人気はぐんと上がるでしょうね。

mihimaru GTに火がついたのは、なんといっても、Mステで、二人の素顔が見えたからです。
(私もその一人)

私の場合、ネット検索してみて、気になっていた曲がことごとくこの二人の曲だったので、びっくりした、ということがあります。

意外とこういう人は多いでしょうね。

もし、Mステがなくて、HEY!HEY!HEY! だけだったら、こんなに伸びたかどうかわかりませんね。


これって、なんか、恐くないですか?

歌もよくて、詞もよくて、ノリがあって、しかもビジュアルもいい。
これだけではだめで、 なんと、 コメントができないと、トップになれない。

しかも、聞かれたことをうまくかわし短い言葉で返す(場合によってはつっこみを入れる)ことが
できないとだめ。

これって、小泉、じゃん!!!

あ、そうか。歌番組がみんなこうなったのは、小泉的なものによるため
あるいは
歌番組がこうなったから、小泉的なものをほしがった

どちらかわかりませんが、「短くすぱっとコメントできる力」がトップアーチストに求められているのは間違いないようです。

それは、アーチストだけでなく、あらゆる世界(私のような研究者の世界でも)で求められています。

うまく相手の言葉に、短く返していく力。

そして、できれば、短く返していく中に。すぱっと、自分の「素」を(好感度アップ的に)いれていける力。


こんな力が求められているのです。

くそくらえ、です。

だから、こんなコメントをもとめてくる輩には、この力を身に付けた上で、みんなでいっせいに、短く、コメントしてやりましょう。

く・そ・く・ら・え!!!!!!!!!

小倉からポッドキャスト連続攻撃だ!

ということでここクリックしてね

今日はおひさのポッドキャストでございます

ここをクリックしてね


今日は、mihimaru GTの話。 ううむ、このユニット、やるなあ。

今日は母のもとへ

今日は母の元へ、よめさんと子どもを連れて行きました。

母は大正14年生まれ。今年81歳かな?

一人暮らしをしていたのですが、暮らせなくなり一時期病院へ。

そして、いわゆる有料老人ホームへ4月から入居しました。


一人暮らしをしているころから強気でわがままな母だったのですが、

パーキンソンがすすみ、自分で動くのがむずかしくなりました。

なんとかなだめて病院へ。

それまで、一人暮らしを30年ぐらいしていた人なので、他人と関わらざるを得ない病院は、

最初はとても抵抗があったみたいでした。

しかし、病院の看護師さんや介護員さんの力で、

「人にたよることの心地よさ」がようやくわかり、共同生活がまがりなりにも営めるようになってきました。

そうなると不思議なことに、ほぼ寝たきりだった人が、車椅子ながら自分で動けるようになるのです。


これはびっくりしました。

そして、食欲は出てくるし(おかしが大好きなんですよ、うちの母は)人に世話をしてもらったら

なにかあげようとするような心の余裕が出てきました。

そうなると病院にはいられなくなるので、終の棲家として、今の場所に決めたのです。

それまで、いくつかの施設を見ました。本人と一緒に行き、時には体験入居もしたのですが、

どれも「病院」みたいなところだったのです。

いくら終身介護とはいえ、病院みたいなところでは、気が滅入ってしまいます。

いろいろあって、決めたここは、

木がふんだんに使われたところで、なんと温泉まで出る。

確かに駅からは遠い、不便なところにあるのですが、なんと、私の勤め先からは近いのです。

そんなこんなで、ここに決め、暮らし初めて、1ヶ月。

びっくりするぐらい順調に、暮らしています。

今日は、こどもの日という事で、うちの子ども(もう大きいけれどね)を連れて行ったというわけです。

そしたら・・・・


なんと・・・・


出入りの業者さんに、惚れているみたいなんです・・・・・


ほほえましいんだけど、なんだか、自分の母親がそんなふうになるなんて、なんか、息子としては気恥ずかしい・・・


とはいえ、生活が安定し、人の中で生きることの安心感を得たら、何歳でも「恋」できるのだと、

ほんとうに思いました。

しかし、まあ、なんというか、息子としてはどうしたもんやら(笑)


こんなふうに書くと、とても仲がよい親子に見えますが、まったくそうではありません。

ずっとけんかをし、今もし続けているのです。

しかし。

親が生きている、ということは、いいことだ、と、今は少し思います。

別居している(そして再婚した)私の父も、80を越えて、気弱になっていますが、

それでも、30歳も若い奥さんと一緒にいるので、若い若い。


いろんなことがあった、私たち親子ですが、いまようやく、ふわっとしたなにかを手に入れているのかもしれません。


私は、まだまだその境地には達しませんが・・・

今日はおへやでのんびりと

しておりました。

広島は天気がとても良くて、絶好の行楽日和なんですが、よめさんは庭の椅子や机のペンキ塗りにいそしみ、私は、たまった手紙や書類のかたづけをゆっくりしておりました。

>しんじさま

あ、そうでしたか。ニューヨークにお住まいでしたか。実は知り合いが(例のこまつさんね)9月(だったよね)にニューヨークで個展をやるので見に行くのです。もしよろしければ、そのときもお会いできたらいいですね。(なにしろ、ニューヨーク行ったことが無くて、こわい〜〜)

>doiさま

コミュニケーションの素地を耕す、というのは、まあ、比喩なんですね。コミュニケーションの基盤を作る、といった方がいいのかもしれませんが、これも比喩ですね。
なんといったらいいのかしら・・・

ただ、コミュニケーション能力、というと、そこからこぼれ落ちるものが多いなあという感じがするのです。

私は、言語学の大学院を出て、中学の教員→高校の教員→国語教育の大学院生→予備校の教員→幼稚園小学校教員養成の大学の教員&日本語教育の非常勤講師→中学高校教員養成の教員&看護大学の非常勤講師→小学校教員養成の教員 

と、幼稚園(保育所も)から大学院ドクターまで、また、日本人も外国人も、また、大人も子どもも、日本語(国語)を教えた経験があります。

・・・われながら、流れ者の人生だ・・・・・・

この経過の中で、コミュニケーション能力とはいえない何か、が、ある、と思っています。

それをさぐるために、生成文法をみたり、語用論を見たり、テクスト言語学を見たり、文学理論をみたり、もちろん。L1L2の言語教育の成果を見たりしたのですが、これええええというのがないのです。

それよりも、現場(あらゆる意味での、ね)から臨床的に、帰納的に、なにかをみつけようとしているところです。

科研のメンバーとも探りながら、<身体性>・・・の軸をとりあえずはあげてみたりはしましたが、これとて決め手ではありません。

なんかいいお知恵があったら教えてください。ほんとにどんなことでもけっこうです!


・・・・最近、よめさんが仕事をやめたので、なぜか夜早く寝ています??同じ部屋でパソうちしているので、ポッドキャストがしにくいんだなあああ・・・・


ああ、しゃべりたい!!!

あ、でも岩手で芝居みたいな授業するからいいか!!

というわけで、

>kuromiyaさん

やってますなあ、ドラムサークル!!
わしもこれを使ってことばをかぶせた授業を考えています。
と思ったら・・・

あんた、わしが考えていることそのまま書いてます!

そうですとも。わたしは、群読とドラムを組み合わせたサークルをやろうと思っているのです!


ああ、言われたから、ちょっと変化させようかな・・・・

また、アイデア下さい!!

GWの日々

というわけで、5月1日からのできごとを続けてみましょう。


5月1日

広島市立舟入高校で、平和教育の授業。

私が勤めている大学の同僚であり、組合執行部の同志である、吉田先生(法学部と国際協力研究科のかけもちをしている方。よくわからんが、なんかとてもすごい人みたい)のゼミの学生で、
イギリス人の方が、ここで授業しました。

彼は平和教育を研究している人です。舟入高校には英語の先生として勤めていた人でもあります。

その人が、舟入高校の生徒に、英語と日本語をおりまぜながら(ここがいいね)平和について何時間かかけて授業しました。その一部を見に行きました。

とてもよかったです!!!

彼の授業は模擬授業として一度見せてもらったのですがそのときは思いが空回りした授業でした。

今回は、こんないい感じの流れで進みました。

単元名をつけるとすれば「あなたにとってのピースメーカーは?」となるでしょうか。


授業の流れ

(1)最初は前時の続きで、イギリスの高校とのメールのやりとりについての経過報告

(2)導入:前時に考えた「舟入高校が平和だとしたらその理由は何」について、各グループの答え(一応英語)を確認

(3)先生からの投げかけ:「こんな風に舟入高校が平和になっているとしたら、そのように平和にしている人は誰だろうか」このようになげかけたあと、「このことについてkeep your mindしておいてね」といいます(この部分がとてもいい)

(4)先生からの提示:「ここでピースメーカーについて考えてみましょう。世界を平和にした人たちをここで挙げてみます。」といって、パソコンの画面をスクリーンに映す、そこには、アナン国連事務総長、マザーテレサ、ガンジー、ダライラマ、キング牧師、などの偉人の写真が次々に写される。一つ一つの写真について、生徒に「知っている」となげかけ、少し説明したりする。そのとき「ピースメーカーは、時には別の人たちからはトラブルメーカーになるよね」といい、例えば、マンデラの写真などを示す。

(5)先生からの提示:ここでパソコンを離れ、先生が本物の写真を生徒に見せる。「私にとってのピースメーカーは、この人。」そこには、先生のおばあさんが写っていた。そして、なぜおばあさんが自分にとってのピースメーカーかを話した。

(6)先生からの投げかけ:「ここでみんなにとってのピースメーカーを挙げてみよう。グループで話し合ってみよう」

(7)グループでの話し合い:一人一人が自分にとってのピースメーカーを考え交流し、グループで一人決めて、次週に発表することになる。


こんな流れでした。学校→世界→自分 というながれがとても自然で、自分にとってのピースメーカーと、マザーテレサとが、同じ働きをしているということが自然の心に残り、平和ということが、実はとても身近なことでもあるんだ、ということが感じられる授業でした。

とてもとても勉強になりました。

ことばの授業でもこういうことをしていかなくてはいけないと強く思いました。


5月2日

この日は終日原稿書き。

(1)5月27日に岩手大学で発表する原稿(これは雑誌『国語科解体/再構築』の原稿でもあります。

(2)『教育科学国語教育』8月号の原稿(「学習が遅れがちな子どもへの対処」という特集の原稿)
(なお、7月号にも「授業のわざ」という特集で原稿を書いています。なんと台本形式で書きました!)

(3)『鍛える国語教室』という雑誌の原稿。書くことの特集です。なんで書くことがいやなのかについて考えてみました。


一日で3本書くという荒技。腕が上がらなくなりました・・・・・


5月3日

(午前)

三原一中で知り合った生徒(今は高校生)とその従姉妹姉妹の3人が遊びに来たので、西条周辺を紹介しました。

東広島市西条周辺は日本酒づくりで有名(こちら参照)なので、中高生だったけど、酒蔵巡りをしました。

けっこうきゃあきゃあいいながら酒蔵を回ったり、お酒の饅頭を買って上げたりしているうちに、
西条駅前にある、ギャラリー白壁というところで、なんかおもしろそうな展覧会をやっているようだったので、行ってみました。

ネイチャー・イラストレーション・ギャラリーというもの。

くわしくはこちら

展示風景全体
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展示の一つ
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主宰者と娘さんとお友達
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なんかいいかんじなんですねえ。

連れて行った3人もここにいついてしまい、絵を描き始めました。
私は次の予定があったので、3人をおいていってしまいましたが、とても残念でした。

主宰者のはやしさんは、普通に働きながらさまざまなネーチャーなことをしている方で、なんとなんと広大の大学院にも通っておられる方でした。

なんかとても、エネルギーを感じました。

はやしさん、ほんとにありがとうございました!!

(午後)

午後は13時から、難波ゼミのOB会。久しぶりのメンバーが、9人もそろいとてもにぎやかでした。

09生(広大の特別な言い方。平成9年入学生という意味)1人、10生3人、11生2人、12生2人、13生1人というメンバーです。

今回は初回と言うことで、それぞれの近況を報告し合いつつ、教員の人は授業や学校でどんな苦労をしているか、企業の人は仕事をどんなことしているか、を出し合いました。それだけでなんと4時間!!
時間はあっという間に過ぎました。

そのあと、行けるメンバーで、西条プラザ(なつかしいでしょ!!)の徳川で食事。これまたあっという間に時間が過ぎました。

気の置けない仲間(とあえて言わせてもらいます)との時間はほんとうに早いです!

これからもこの会を続けていくことになりました。

難波ゼミOBOG諸君!!

次は、7月16日(日)13時から難波研究室(C612)で開かれます。来たい人は、次の人に連絡をとってください!!
09生は杉岡さん、10生は川鍋君、11生は梅原君、12生は中尾君、13生は畝本君 へ!!

こんな感じで、GW過ごしています。

>新・広大製さん
来週の水曜楽しみにしています。声かけてね。

>しんじさん

お誘い、ありがとうございます!!

なんとなんとトロントからのお誘いです。ありがとうございます!!

行きます!カナダ日本語教育振興会2006年度年次大会がトロントで開かれるのですね。
行きますとも!なにしろ、そのときトロントにいるのですから!!

ああ、うれしいなあ、こういうふうに人と人がつながっていくのですね・・・・

その節はよろしく!!


吹奏楽、スペイン、ピースメーカー

5月になりました!!

ああ、岩手で授業する日が近づきます。どきどきします。

ああ、カナダに行く日が近づきます。どきどきします。


毎年毎年新しいことが続く、この私の人生は、幸せなのでしょうね。


では、4月29日のお話から。

4月29日は恒例の学思会。私の研究室で実践者や学生やいろんな人が集まってうだうだする会です。

その日は、2本のおはなし。

一本は、私の岩手の授業の準備もかねて、ドラムサークルのお勉強。

岡崎の鈴木先生から貸してもらった「サウンドシェープス」を使って、簡単演奏会。

なんかみんな手に持って楽しそう。

でも、どうやって、国語の授業にしよう・・・・

ここにヒントがあるとは思っているのだけど・・・

2本目は、「三森さん的言語技術」を講習で受けている先生からの、言語技術の提案。たくさんの反論があったのだけど、これ、うまく利用すれば使えるかも、という意見もあり。
ただ、言語生活では直接役には立たないが、「ゲームとしてのコミュニケーション」には使える。

問題は、ゲームから現実にどのようにつなぐか、だね。
ある意味、まわりくどい方法でもある。

あと、なんでもかんでも、PISA型の読解力と結びつけるのはやめたほうがいいですね。

「三森式言語技術」は、ある意味、PISAとは、正反対ですから。(だからといって、どちらかがいらないわけではないよ)

とにかく今回の学思会は、いつもよりも、大盛り上がり!!

4月30日

吹奏楽のコンサートに行きました!!

祇園ウインドアンサンブルです。

妻の元同僚がここに所属されています。

吹奏楽なんて報徳に勤めて以来聞いていませんでした(報徳学園のブラバンは有名です)。

ちょっとなめていたところもありました。

ただ、ゲストに、サックスの須川展也が来るので、もしかしてとも思っていました。


全国、300万人の(?)吹奏楽ファンの皆さん、ごめんなさい。


吹奏楽、すごい!!


華やかで、きらきらして、劇的で、明るくて・・・


ああ、ほんと、ごめんなさい!


まあ、管弦楽の準備のためのものでしょ!

なんて、今後は絶対に言いません!!


私、吹奏楽で、泣きそうになるとは思いませんでした。

鳥肌がたちました。


もちろん、社会人の人たちががんばってやっているというところも、涙の一因でしょう。

須川さんの演奏も、もちろん大きな一因でしょう。

しかし、しかし。

吹奏楽そのものが、こんなに楽しいものとは、ほんとうに思いませんでした。

管弦楽というのは、なんか、堅苦しいというか、まじめというか、そんな感じがしてくる気がしています。

演奏会の中では、須川さんと指揮者の方との軽妙なトークがあり(お二人は同級生らしいです)、アドリブもあり、の楽しい演奏会でした。


音と言葉、今一生懸命考えている私には、とてもとても、力を与えてくれるものでした。


興奮がさめないまま(最近芝居を見てもこんなふうにならない。悲しい)よめさんと、晩ご飯へ。

なんか変わったものが食べたい、ということで、スペイン料理。


広島市中区本通りちょっと入ったところにある、 VAMOS A TABERNA EL TRESというところ。

HPは、ないみたい・・・

イベリコのコロッケと、ジャガイモのサラダ、さらに、エビのガーリックオイル炒めがおいしかったです。

ただ、妻は、脂っこかったみたいです・・・

その日の夜は、演奏聞き疲れと歩き疲れで、心地いい眠りにつきました・・・


5月1日

今日は、舟入高校で、イギリス人の授業をみました。

あっと、ここで時間切れ。この件については、また後日ね。


>新・広大製さん
なんか授業ではなかなか話しかけにくいですなあ。たのむからそっちから話しかけてきてよ、ね。

>なつみかんさん
じぶんの名前に さん つけるな(笑)。実物はもっとかわいい、と言っておこう!!

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