今日は声と文章がほぼ同じ内容です!
声はこちら
おひさしぶりです。
なんかねえ、ちょっと落ち込んだわけですよ。
「声がないほうがいい」「声が暗い・・」
せっかく意気込んでやってみたポッドキャストだったんですが、
どうも、評判がよくない・・・
というものの、一方で、「声があっていい」「声が脱力していていい」
という「声」もあり・・・
なんだかねえ、混乱したわけですよ・・・・
それで、ネタごとに「声」と「文字」を使い分けることに
とりあえずしてみました。
別案で、「声と文章を別々の内容にして、声を付録みたいにしようかな。つまり、「声がふろくのぶろぐ」」みたいなことを考えたけど、
めんどくさああああああい、ことがわかり、断念。
でも、やってみたい気持ちはあるのよ。
あと、もう一つ。
文字を声に出して読む、というやつ。
今日はこれでやってみます。
まあ、いろいろ試させてね。
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さて、京都の事件です。
あの小6の女児を殺した大学生に
私はとても近い(近かった)ものを感じています。
彼が一人っ子であること。
彼が子どもの頃うるさくしつけられたこと。
彼が家庭内暴力をふるっていたこと。
家庭に「あたたかい会話」がなさそうであること。
私と彼とはとても似ている状況を持っています。
そして。
私の中に、ストーカーに似た「執着」を、少なくとも中学生ぐらいまではもっていたことも
「似ている」と思わせる要因かも知れません。
家庭があたたかいと感じられず、自分を受け入れてもらっている感覚がなかった私は
自分が「いい子」でいることで家庭がかろうじて家庭の体をなしていることを実感しており
そのような行動をとっていました。また、親に反発するがなかったのもその理由でした。
勉強すること、人にほめられてもらうこと、それらの「業績」は、家庭が家庭であること、家族が家族であることのために、必須だと自分で思っていたのです。
でも、それらの「業績」は、現実の前では、ほんとうに無力でした。無駄に積み重ねられていきました。
途方もない閉塞感の中で、私は本や空想に逃げていたのだと思います。
中学になり、体が大きくなると、たまっていたエネルギーが噴出してきました。
自分をこうしたのはおまえたちだ!
みたいな気分が吹き上がってきたのです。
また。
自分に好意をもってもらうことが自分にとっての自分の証明であるから
そのような人がすこしでも自分に冷たい(と勝手に思うような)ふるまいをすると
どうしても我慢ができなくなって、追いかけてしまう。
追いかければ当然嫌われます。嫌われるとますます追いかけるのです。
本当にストーカーになったことはありませんが、そのような気分に何度も何度もなりました。
それは、自分のなかで押さえられないぐらい強い衝動でした。
けれど。
私は、現実に戻ってこられました。
私は人を殺しませんでした。
それは、偶然のような気がするのです。
中学の時に出会った演劇
中学から高校の時に出会った恩師たち
同じく中学から高校に出会った友人たち
中学から高校の時に付き合った女性たち
そして。
両親の別居という、分かりやすい形での、家族の崩壊。
それらが、私を現実に戻してくれた気がするのです。
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彼には、偶然がなかった。
それが、なんともいえない・・・・
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