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2005年12月

2005年も終わり

大晦日

みなさん 紅白とPRIDE と K−1と その他とをザッピングしながらテレビを見ているのでしょうか。

大掃除は終わったけれど結局予定していた部屋の模様替えはできず、越年・・・

悔しいです。


今年は私にとっては大きな出来事はあまりなく、全てが来年のための準備という感じでした。

そう、未来のための準備。

うまくいかなかったことや失敗したこともけっこうあったし、研究でも教育でも手探りが続きましたが

今までやってきたことを確認していった年だったと思います。

踊り場の1年が終わって、階段を降りないで上がれそうです。


今年の最後はポッドキャストで終わろうと思ったのですが

大晦日でみんな起きていて声に出す状況ができません。

というか、なんか恥ずかしいね。子どもに聞かれるのは。

というわけで、文字だけの、年末ごあいさつ。

みなさま、よいお年をお迎えください。

あ、同時に、PRIDEとK−1が終わった!

これって・・・・

大掃除トランス

大掃除みたいなことをしました。

毎年毎年

もっと早くやろうと思うんだけど

かなわない。

なんかいつもばたばたと掃除をしています。

ああ、ここも、ここも、やりたい!

と、掃除をしているうちに思うのだけど

いかんせん

時間がない。

(ほんとは正月になってもやればいいんだけどね。なんか年末までにやったしまいたい!という気持ちがあります。紅白もレコード大賞も遠い昔の出来事みたいになったけど、大晦日は節目!みたいな気持ちはまだなくなっていません)


1年に一度だけやる大掃除だから、

例えば、窓枠の端の方のホコリとか、タンスの裏側の綿ぼこりとか、


一年ぶりに出会うわけで。

なんか 懐かしいというか お久しぶり というか

そして 久しぶりの再会で

この1年の自分をふりかえったりするわけです。

毎年ほぼ同じ時に同じところを掃除するので

時々

今やっている掃除は

今年の掃除なのか去年の掃除なのかあるいは3年前の掃除なのか

わからなくなるときがあります。

まるで

今年の私と去年の私と○○年前の私が一緒に掃除しているみたいで。


同じ時に同じところを掃除する、まるでそこには「永遠」があるみたい。

でも

私は確実に年を重ね

家も確実に年を重ね

少しずつ変化があるはずなんでしょうね。


毎年こんなことを考えながら掃除をしているので

上のような思いも毎年重ねていて

掃除の時は

相当深い思索の時間になります。


なんていうのは、まあ、逃避みたいなもの。


日頃使わない体と、日頃使わない「肉体労働のための手順関係脳」とを酷使するので

一種の

トランス状態になるのかも知れません。


決まったときに決まった場所で決まったことを

普段は使わない体の部位や頭を使ってやると

こんなにおもしろい体験ができるのだと

実感しております。

明日は大晦日。

掃除トランス最終日であります。

掃除が終わっていない人、お互いにがんばって、「浮遊」しましょう!


大掃除の世界に向かって(笑)!!!

合宿報告など

今日は声だけよ!

今日はクリスマスイブ

今日はクリスマスイブ。

このブログへのアクセスが極端に少なくなる時期。

みなさん、家族や恋人と素敵な時間をすごしていらっしゃって、

こんな(というのは卑下しすぎか)ブログを見る暇がないんでしょうねえ。

かくいう私も、本日はしっかり家族サービス。

とはいうものの、一番はりきったのがよめさんで、

クリスマスディナーのための買い物やら支度やらなんやらでお疲れのところに

ワインをぐびぐび飲んで、ただいま(22時段階)ばたんきゅうーーでありまする。

隣でパソコンを打ち込んでいるので、今日もポッドキャストはお休み。

起こすと怖いからねえええ。


今日子どもたちと(そういえば長男はカンボジアでクリスマス。やっているのかしらねえ、かの地では)クリスマスディナーを食べながら(ビーフシチューのパイ包みとサーモンのマリネがメイン。ケーキは、広島ご当地のバッケンモーツァルトの18センチイチゴのケーキ)いくつまでサンタを信じていたかという話になりました。

といってもうちの子どもたちは決してサンタがいないとは今も親の前では言いません。生まれてからこのかた子どもの前では完璧にサンタがいたので、本当に大きくなるまでたぶん信じていたと思います。

高2の次男が「クリスマスプレゼントはどこに隠していたのか」と執拗に聞いてきました。
前の前に住んでいたマンションは狭くてどこにも隠すところがないはずなのに。。。とずっと思っていたみたいです。

もちろん答えはしなかったですが、サンタさんが遠のいた今でも、クリスマスへの「不思議さ」をずっともっていてくれるのがうれしかったです。(ふだんは憎たらしいけれどね!)

「明日はひさしぶりに来ないかな」なんて高2と中3の、むさくるしい男兄弟が言い合っている姿は、なんか、少し、涙が出そうになります。(でも、たぶん、来ません(笑))


クリスマスは、心のつながりを実感するための、時間と空間を作ってくれるのだと思います。


苦しい人たちに、クリスマスの時が来ればいいのに。

長男がボランティアをしている、カンボジアの子どもたちにも。


みなさんに メリークリスマス!!

能面のようにしたのは誰

ある同僚の先生がこんなことを言いました。
「最近の学生は能面みたいだ。何を言っても反応がない。」

うむうむそんな感覚は確かに私もありました。

特に今の職場に変わってからそのように感じることが多くなった気がしていました。

つまり、場所の問題、職場(というか要するに大学の性質)の違いかなと思っていました。

だけど、上のような状況はもしかしたら大学全体に進んでいるのかも知れないと思い始めていました。

上の先生は、この大学にずっと勤めている方なので、このような感想をもったとしたら通時的な変化かも知れないとも思うのです。

学生の顔が能面みたい。

それにいらだつ教員は、般若顔でしょうか。


さて、少し話を変えて。


ゼミの時間、何を論文にするかを出し合いました。


ある学生とのやりとり。

学生「私は推敲指導について研究したい」
私「なんで?」
学生「私が文章書くときにいちいち考えてしまうから」
私「文章を一気に書けるようになりたいんだ」
学生「最初から何度も書き直してしまう」
私「君の中に「こんな文章はだめだ」みたいに言う<他者>がいるんだろうね」

その学生の中にいる、「自己内<他者>」は、もともとその学生の中にいたのではなく
外の<他者>が入り込んだのでしょう。


別の学生とのやりとり

学生「コミュニケーションがうまくいかない子どものサポートを考えたい」
私「なんでその研究をしたいと思ったの?」
学生「私がコミュニケーションが苦手だから」
一同驚愕
私「え?君がコミュニケーションが苦手ならここにいるみんな苦手になってしまう。なんでそんなふうに思うの?」
学生「小さい頃から、あなたはコミュニケーションが下手だと言われてきたから」
私「誰が言っていたの?」
学生「親が」
一同涙。その学生も涙。

その学生の中にいる「あなたはコミュニケーションが下手だ」と決めつける「自己内<他者>」は
やはり、周りの大人から植え付けられたものでした。


ほどよい「自己内<他者>」は、その人の行動や言動を適切なものへとナビゲートしてくれるでしょう。しかし、あまりにきつく<検閲>しすぎる「自己内<他者>」は、その人の人生をとてもとても苦しいものへと変化させてしまいます。

そのような厳しい<検閲>を行う「自己内<他者>」は、子どもの周りの大人によって形成されるのです。外側から厳しい<検閲>を受けた子どもの中で、「がんばっていい子」になろうとした者は、外側の<他者>を取り込み、自分の中に、自己に厳しい<他者>を生み出してしまう。自己を「外側の他者が生み出す物語」に縛り付けてしまうのです。

能面にしたのは誰なのでしょうか。


自己に、自己に対して厳しい<他者>を持った者の何割かは、外側の<他者>にも厳しくなります。


能面は、連鎖するのです。


どうしたらいいのか。


能面をはずさせる。

違う能面を上から無理につける。

違う能面を見せて選んでもらう。

その能面で、狂言をやってもらう。

能面に落書きをする。

能面はずしたい会をやる

・・・・・・・・・

一番上の方法は、たぶん、うまくいかないでしょうね。

全体が見える喜び

今日は声だけだよ〜〜ん

ブログやってて、はじめて相手意識が生まれました。


ポッドキャストを始めて

いろんな感想をもらって

特に声について

落ち着いているという「声」と

暗い淋しいという「声」と


全く両極端の「声」


というか


同じ特徴の声についての


両極端の評価の「声」

私がブログを書き、それを読んでいた人たちの


多様性


に、気づかされました。


今私のブログには200から250のアクセスがあります。


その一つ一つのアクセスの、その多様性に


なんか


恐ろしく


おののいている

そんな感じです。

ポッドキャストという、実音声を使わなければ


決して気づかなかったことでした。


ということは、


多くの、音声なしでやっているブログやHPや掲示板などでは

その多様な相手が向こうにいるという意識は、送り手にはないのかもしれませんね。

ただ「書いている」だけでは、相手が、やっぱり見えていないのでしょう。

たとえコメントやら返事やらがあっても、それは、実音声に対してのコメントではないのです。

ポッドキャストによる、私の実音声が、読んでいた(聞いている)みなさんのなにかに働きかけて

私への、表面的には私の声への、評価を生み出したのでしょう。みなさん自身が生み出す個性的な評価を。

そしてみなさんが生み出す個性的な評価の「声」により、私はみなさんの「多様性」に気づかされたというわけです。


やはり、ポッドキャストはすごい。

HPの送り手に対し、リアルな相手意識を思い知らされる力があるのですから(受け手のリアクションを強く生み出すという点において)。


声は


力ですね。


クララさん、おちょう婦人さん、こんなことを私は考えてみました。


あ、そうそう、教え子のおふたりさん、いつもありがとう。


出会いは偶然かもしれないが、実は求めていたかもしれない。
求めていてそれを意識的か無意識的かわからないが、だれかなにかが、その人が求めている「声」を
聞き届ける。聞き届けただれかなにかと、その人が「出会う」。あたかも偶然のように。

それは、偶然のようで必然のようで・・・・

そうなのかもしれません。


あ、また「声」!!


京都の事件と私

今日は声と文章がほぼ同じ内容です!
声はこちら

おひさしぶりです。

なんかねえ、ちょっと落ち込んだわけですよ。

「声がないほうがいい」「声が暗い・・」

せっかく意気込んでやってみたポッドキャストだったんですが、

どうも、評判がよくない・・・

というものの、一方で、「声があっていい」「声が脱力していていい」

という「声」もあり・・・

なんだかねえ、混乱したわけですよ・・・・

それで、ネタごとに「声」と「文字」を使い分けることに

とりあえずしてみました。

別案で、「声と文章を別々の内容にして、声を付録みたいにしようかな。つまり、「声がふろくのぶろぐ」」みたいなことを考えたけど、

めんどくさああああああい、ことがわかり、断念。

でも、やってみたい気持ちはあるのよ。

あと、もう一つ。

文字を声に出して読む、というやつ。

今日はこれでやってみます。

まあ、いろいろ試させてね。

**********************
さて、京都の事件です。

あの小6の女児を殺した大学生に

私はとても近い(近かった)ものを感じています。


彼が一人っ子であること。

彼が子どもの頃うるさくしつけられたこと。

彼が家庭内暴力をふるっていたこと。

家庭に「あたたかい会話」がなさそうであること。

私と彼とはとても似ている状況を持っています。

そして。

私の中に、ストーカーに似た「執着」を、少なくとも中学生ぐらいまではもっていたことも

「似ている」と思わせる要因かも知れません。


家庭があたたかいと感じられず、自分を受け入れてもらっている感覚がなかった私は

自分が「いい子」でいることで家庭がかろうじて家庭の体をなしていることを実感しており

そのような行動をとっていました。また、親に反発するがなかったのもその理由でした。

勉強すること、人にほめられてもらうこと、それらの「業績」は、家庭が家庭であること、家族が家族であることのために、必須だと自分で思っていたのです。

でも、それらの「業績」は、現実の前では、ほんとうに無力でした。無駄に積み重ねられていきました。

途方もない閉塞感の中で、私は本や空想に逃げていたのだと思います。

中学になり、体が大きくなると、たまっていたエネルギーが噴出してきました。

自分をこうしたのはおまえたちだ!

みたいな気分が吹き上がってきたのです。


また。

自分に好意をもってもらうことが自分にとっての自分の証明であるから
そのような人がすこしでも自分に冷たい(と勝手に思うような)ふるまいをすると
どうしても我慢ができなくなって、追いかけてしまう。

追いかければ当然嫌われます。嫌われるとますます追いかけるのです。

本当にストーカーになったことはありませんが、そのような気分に何度も何度もなりました。

それは、自分のなかで押さえられないぐらい強い衝動でした。

けれど。


私は、現実に戻ってこられました。

私は人を殺しませんでした。

それは、偶然のような気がするのです。

中学の時に出会った演劇
中学から高校の時に出会った恩師たち
同じく中学から高校に出会った友人たち
中学から高校の時に付き合った女性たち

そして。

両親の別居という、分かりやすい形での、家族の崩壊。

それらが、私を現実に戻してくれた気がするのです。

**********************
彼には、偶然がなかった。

それが、なんともいえない・・・・


イギリス人がやった平和教育

の話をしたいんだけど、今日は遅く帰ったので、明日更新します。

あと、「声はないほうがいい」という「声」もあり、むずかしいなあと悩んでいます。

当分は、声と文章と、適当に配分してやってみようかなと、と思っております。

そうそう、ひとつだけ、宿題。

「あなたが思う、平和とは何ですか。あと、もう一つ、あなたが考える「あ、この人は平和を作る人だ」というのは、誰ですか?」


声体????

どんなふうに始まるかしら!?

あのね、文章もあったほうがいいという声が少し(よめさんだけ?)あるんだけど、どうかしら。

じいっっと見たい人には文章があった方がいいかもしれないけど、ながらでいいひとは声の方がいいかもね。

あと、ポッドキャストで話題にした「声体」について、だれか知っている人がいたら、教えてね!!

ほんじゃ。

声の問題

こんばんは。

というわけで今夜は、声はなし。

実は今日ある会合で、このブログの、私の声が問題になりました。

というのは、私の声が「暗すぎる」というのです。

ショック!!

実は似たようなことは、よめさんにも言われていました。

一方で、「あの声は落ち着く」という声も。


うううむ、むずかしい・・・

文章書いているときとは全く違うことに気をつかわなくてはいけなくなります。

それがおもしろいのですが、「自分のポッドキャストでの声」を定着させるまでには

紆余曲折がありそうです。

そういえば、このブログをはじめたころから、文章の文体にはいろいろ工夫したり

考えたりしたのですが、ようやく、「なんとなく柔らかくてちょっと堅い」感じの今の文体に

落ち着きました。

これからいろいろ考えていくのだろうな、と思います。

こういうの、楽しいです。

みなさんも、ブログやポッドキャストやればいいのに。

自分の中の、いろんな側面を発見できますよ。


真剣に、教材にしようかな・・・・・・

事件と教育と

今日のポッドキャストは重いかも

世の中が憂鬱な感じなので、ブログをクリスマスバージョンにしてみました。


競争社会と、弱者を顧みない社会と、人の話を聞かない人の増大と、みんなつながっていますねえ。

また頭が・・・

痛いんだよねえ

そんなときの、お話・・・・

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