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AVばなしから

私は以前、あまんきみこさんの作品(そして国語科教材)「白いぼうし」について文章を書いたことがありました。それは、ここに載っています。

その本は、国語教育関係者と文学研究者の二人が同じ作品(教材)について書いた後、互いの文章を読んだ感想を載せているのです。そこに私は次のような文章を書きました。(鶴谷さんは、相手の文学研究者です。)元の文章がないとわかりにくかもしれませんが、読んでやってください。

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おいてきぼりにあいました 
難 波 博 孝 

私は、神の声を何度も聞いたことがあります。父親が二度目の単身赴任で家を離れ(その赴任先から父は二度と帰ることはありませんでした)、母は、父の浮気を妄想しはじめて、電話でいつも父の居場所を確認しようとしだしました。家に電話がなかったので、電話を借りに行く母に、私はなぜか連れられ出かけていく、その暗い夜道、頭の中を神の声が聞こえていました。私があの声を聞き届けていたら、私は今ここでこの文章を書いてはいないでしょう。
本編で引用した梅村氏も、神の声を聞いたと言います。父親の仕事の関係であちらこちらを転々とさせられた彼女は、神を作り、神と対話したと言います。また、神戸の「酒鬼薔薇」事件の加害者の中学生も、神を作り、神の声を聞いていました。「神の声」を聞くことができるのは、「豊かな感性」の持ち主だからなのでしょうか。

いきなり、とんでもない文章から始めて申し訳ありません。鶴谷氏の文章を読んだ時、私の中に生まれたのは、上のような思いでした。もちろん、他の思いもいくつも生まれましたが、氏が、松井さんのことを「異なる領域のいずれをも見晴かす眼の持ち主であり、どういう状況をも受け入れうる豊かな感性の持ち主」であるとされた時、おいてきぼりにあったような気がしたのです。
鶴谷氏は、引用された論文が国語教育にごく近いものが多く、またその穏当な意見は、好感が持てものではありました。文学研究者と対決しなきゃ、と思っていた私にとっては、はぐらかされた気分とともに、論を読みながら一緒に考えていっているという感覚も持ちました。その内容が、私の論にあった「作品としての物語」の中の、私の「松井さん像」を一層補強するものであったからというのもその一因でしょう。
例えば、夏みかんが、「祈りにも似た母親の愛情」の表象であり、「故郷の母親(家族)・自然とを結ぶふかい絆」であると言われるのは、「夏みかん」は、「おふくろから送られてきた、唯一の孤独を慰める道具であり、彼がそれによって人のつながりを感じることのできる唯一の道具ではないのか。」という「私の物語」を、より具体的に表現しているものと感じられます。また、「ほう」の分析を含めた「しんし」と松井さんとの場面の考察では、「運転手と客という垣根が取り払われ、一体化した」と述べられ、「冒頭の松井さんとしんしの会話は非常に重要なものに思えてくる。この物語の中で、唯一、コミュニケーションが成立しているのである。そこには、松井さんが希求していた、心の通いあいが成立している。それは、二人の会話の、間投詞にもハッキリ現れている。」という「私の物語」をサポートして下さっている。さらに、夏みかんをレモンと比較し、その「素朴さ」に注目され、それを松井さんの性格と重ね合わせたのは、慧眼だと思いました。
けれども、鶴谷氏の論文には、松井さんの「孤独」も「不安」も、ましてこの物語が「死者の物語」などということも出てきません。それはいいでしょう。私の文章は、しょせん私の可能な物語ですから。ただ、松井さんにまつわる鶴谷氏の思いが、ある程度まで私と同じだなあと思うから、多少は期待したのです。いやいや、自分の中の、どろどろした「可能な物語」が、他者と一致(部分的にも)することはほとんどないことを、「文学の授業」でいやというほど知っている私が、そのような期待をもってはいけませんね。それでも、ある微かな期待はやはり持っていました。
最後に、鶴谷氏が「白いぼうし」の主題を(まだ、主題探しが文学研究では必要なのですね)「私は生きとし生けるものが本来の状態であることが最も自然で素直なことであること」とし、先に述べたように松井さんの性格を「異なる領域のいずれをも見晴かす眼の持ち主であり、どういう状況をも受け入れうる豊かな感性の持ち主」とした時、そこで終わってしまった時、私は、完全に置いておかれました。ある程度まで一緒について来れたのに、ああやはりという私の気分を残して、鶴谷氏の論文は終わってしまいました。
「どういう状況をも受け入れうる豊かな感性」は、生まれながらなのでしょうか。そうかもしれません。しかし、そうではないとしたら・・・。松井さんが生きてきた、生きてきてタクシー運転手という仕事にたどりつき、そこで次々入れ代わるお客とのコミュニケーションともいえないコミュニケーションを繰り返す日常を想像すると、私は彼の孤独さを一層強く感じざるを得ません。彼は、異界の声を聞こえるようにさせられてしまっているのではないか、そんな気持ちを持たざるを得ないのです。彼が望んで《蝶番》になっているとは思えない。彼は《蝶番》でなく、一方の「戸」になることを望みながら果たせず、運転席に乗り続けているのではないでしょうか。
もし、それが、「生きとし生けるもの」の「本来の状態で」あるなら、そう、間違いなく私達は孤独の内に死んでいくのですからその通りなのですけれど、私はあの時、「神の声」を聞き届けておればよかった、と思わざるを得ません。現実世界では、誰の声も聞こえないとしたら。

このような「作品の読み」をしてしまう私という学習者に、どのような文学の授業が可能なのでしょうか。文学の授業は可能なのでしょうか。鶴谷氏はいかがですか。

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この文章をつかってここでおはなししたのは、「どっちが現実か」ということです。

現実ということばがちょっと曖昧なので、次のように使い分けてみました。

リアル・・・・・とっても真に迫る、真実みがある、実感がある
アクチュアル・・ここは現実なんだという感覚

私が神の声を聞いたとき、アクチュアルな世界はリアルではなく、ノンアクチュアルな世界がリアルになりかけていました。

舞台に立っていたとき、ノンアクチュアルな世界はリアルそのものでした。

ただし、見ている観客や見られている自分の表側はアクチュアルな世界ですから、リアルさが
ノンアクチュアルなものだけにとどまらなかったのです。
リアルさが、ノンアクチュアルな世界からアクチュアルな世界に体を通して浸透してくれたというか。

ノンアクチュアルな世界だけにリアルさを感じてしまうと、アクチュアルな世界がどんどんノンリアルになっていきます。

ただ、さっきの舞台の話の逆で、
普段の生活(アクチュアルな世界)にそんなに不満を感じているわけではないのに、ふとノンリアルな感覚に陥ることがあります。
家に帰る道を歩いていて、家々がまるで「書き割り」のように感じてしまうとか。
人と話していて、なんとなく意識が全く違うところにいくとか。

ふとアクチュアルな世界がノンリアルになる。
でも、ノンアクチュアルな世界はそこにはない。
演技しているならはっきりとノンアクチュアルな世界があってくれるけれど。

そうすると、上のようなとき、自分はちゅうぶらりんになっている。
アクチュアルな世界はリアルではなく、ノンアクチュアルな世界はない。

その瞬間、魂は、宙づりになる。

宙づりのロープをだれかに、なにかにひぱってほしくて、もがくこともある。
けれど、自分でほどくしかないんだよね。
けれど、その力が自分にないときもある。

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コメント

巫女。
捧げもの。


出てきましたね。

なんかこの話題、他人事にはしておけなくなりました。

AVばなし。何か興味を持ちつつも、
コメントするまでには至りませんでした。
抑止力が働いたように思います。

今日の話は、深くコミットして読みました。

神の声は聞いた事がありませんが、
悪魔のようなものと共に生きてきたと思います。
ノンアクチュアルがリアルを圧倒します。
今もまだ抜け切れず、共にあります。

しんどい人の話についての、話なのだと思いますが、
そういう話に対し、「豊かな感性の持ち主」的な受け止め方
をしているのでしょうか。

「あなたはかわいそうだけど、かわいそうじゃないのよ」
みたいな感じ。

しんどい人の物語りを、「ああ、こんな風にしんどいんだなあ」と、
ただ受け止めるだけじゃだめなのかな。

私はそういう話を聞いたらどう感じるか。
しんどさを、そのままに受け止める事しかしないでしょうし、
それ以外には、「人間って、危機に陥ると、
色んな機能が発動されるんだな」と思うでしょう。

神の声を聞く人もいるし、自己破壊に向かう人もいるし、
私のように、悪魔的な夢がリアルを凌駕する人もいる。


私個人が、AVの女優さんに対して思うのは、
「すごいな」という事。演技に身も心も捧げて、
それでいて自分が損なわれない様にするという事に対して。

以前hirotaka氏の劇団に関わっていた時に、
「役者やったら?」と(多分冗談で)聞かれましたが、
即答でノーでした。

私はリアルとノンリアルのコントロールができないので、
役者が(能力が無いのはおいといても)できる強さが無い。

役者さんは、強いなあと思うのです。
AV女優さんは、演技のために捧げるものが、
テレビや舞台の役者さんより多いと感じる。
その分コントロールが強く無いと勤まらないでしょう。

捨て身の人には勝てないな、という印象を持ちます。
捧げものという感じもあり、これが魅力の一つではないかと。
それは身を捧げる巫女のイメージにも繋がってます。
捨ててるかどうかはわからないのにな。

どうもまとまりませんが、
これがリアルな私の限界なのかもしれません。

痛いね。
神の声を聞いたことはないけど、そういう人が近くにいたことがある。
私自身は、神の声が聞こえるより前に、運良く誰かが救ってくれて、自分の内側からの、声ともいえない声を聞き、自分がリアルな存在であることを確認できていたんだろうと思う。

ノンアクチュアルな世界だけが人を支配するのが、この時代では驚くほど簡単な気がします。
だから私は怖い。
私の家族が、私がいない間にそうなってしまわないか。
時々不安にかられる。
だからって、アクチュアルな世界だけ見てると、薄っぺらな人生になってしまうでしょ。

どっちも必要。
どっちの世界も持てる、作れる力をつけなくてはね。

さて、AV女優はノンアクチュアルな世界を作る者。
星川ヒカルさんのブログを読んでいると、本当に作っている、演じているものなんだなぁと思いました。
プライベートでセックスしない、なんて、本当に仕事でやってるんだなぁと。

じゃあ彼女たちは、何のために演じているの?
誰のために?
お金のためだけとは思えない。
AV女優(または風俗で働く女の子)は世の男性に夢を与えているというけれど、本当はそんなんじゃないんじゃないの?と思う。
誰かのために尽くしている、犠牲者なのよ、という意識は全くないと思う。
ただ自分たちの感じるリアルに正直なのだろう。

生きていることを感じるんじゃないだろうか。
セックス自体にではなくて、演じることに。
憶測ですけどね。

少なくとも、あたしはそうかもしれない。
あたしはAV女優じゃないけど。
セックスという行為自体は好きじゃないけど、そういう雰囲気の中にいるのはすごく好きです。
だからいつも恋してる。
生きてるって感じる。

演じるのは何の目的のためでもない。
自分のため。
必要なんだ。
だけどラクなことじゃない。
もがきながら演じていることだってある。

それを笑顔でやってのける彼女たちは、すごい。

演じることは自分を探すということなのでしょうか?
自分をさらし、周囲の人を鏡にして、自分を映し出す。
そうして自分を探している。


書いているうちに、そんなところに辿り着きました。

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