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AVばなしから(2)

AV女優や風俗の女性は巫女。

そんな言説をふりまく男の人がいますね。


でもそういう言葉は、以下のような言い換え可能な言説です。


AV女優や風俗の女性は菩薩。

AV女優や風俗の女性はマリア。

AV女優や風俗の女性は天使。

AV女優や風俗の女性は聖女。

みんな、女性を、「他者(=わからないもの。わかろうとするきにもならないもの)」扱いにしている。

いや、他人はみんな「他者」だとうそぶく人もいるだろう。
そういう手合いに限って、男同士だとわかりあえるとこもあるんだ、みたなことをいう。

女性を他者にすることは、結局女性に「内面」を認めないことにつながる。

複雑さをもとめないことにつながる。

「女というのは・・・」みたいな。

AV女優が、女優になりきれていないとすれば、結局彼女らは「男の望む内面」を演じている
つまり、「からっぽの内面を演じている」ことなのではないか、と考え始めています。

つまり、だんだん見ていると、飽きてくる。


AV女優が「男が望む内面=からっぽの内面」を演じれば演じるほど、男は女優を他者化しやすい、つまり、あれこれ考えずに性欲の処理だけにぼっとうすればいいということになる。

でも、そうすればそうするほど、途中のお芝居はどうでもよくなる。

つまり、早送りしてしまう。


性欲の処理をしたいがために早送りするのではなくて、「しょせんからっぽの内面を描いているんだからみてもしかたがない」ということに無意識に気づいて、早送りする、のです。


だから、女性の内面が描かれたAVを見ると、途中をみなきゃならなくなる。

これは、男にとって、二重につらい。

普段会う女性に「からっぽの内面」を求めたくても、現実はそうではないのでAVにもとめようとしたのに、それをあざ笑うかのように、AVの中でしっかり内面をもった女性が出てくると、男は自分の「視線」に恥ずかしくなるのです。

そして、自分の中の「からっぽの内面を持つ女性を求めてしまう、男というもの」に激しく気づかされてしまう。


実は、ここから始まるのですけどね。


ここをつきぬけたAVなら、たぶんAVを超える、ジェンダーとセックスを超えた、激しい欲情と激しい認識変革を伴う、フィルムが撮れるような気がします。


林由美香さんの、プライベートチックなムービーはそれに近いかも知れません。

巫女にも内面がある。

いや、巫女こそ、激しい内面がある。


それを、神と人とに奉仕するために、強く強く抑圧しているんでしょうね。


神と人の、両方の声が聞こえるのは、松井さんのような(「白いぼうし」の運転手さん)生き方をしていると思ってしまいます。

両方の声が聞こえるほど、内面には豊かで深くて、激しくも悲しい内面があるのでしょう。

それを覆い隠して、「メッセンジャー」の役割を果たす、巫女は、松井さんは、

そこに自分の「リアルさ」を、見付けているのでしょうか。

「蝶番」であることに。


AV女優は、「激しい内面をもつリアルな女」がもっとも出るであろうセックスの場面で、「男が求める空っぽの内面を持つ女」という正反対を、演じている。


女のリアルにかたどりながら、実は、男のリアルを演じている。のです。

これは、演技ではない。

演技は、どんなものであれ、役者のリアルを演じるものであり、観客のリアルを演じるものではありませんから。

女性は、日常的な場面でも(特に性的な場面に限りませんが、特にそうかもしれません)このような演技をしていると聞きますが、どうなのでしょうか。

それは、演技ではないということは、先に述べたとおりです。

AVからそうではない表現へ。

それは、トランスジェンダーへの道なのかも知れません。

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