船出としての一文章
そんなわけで、仕事始めで職場に行って来ました。
もう働いている人もたくさん。
でも、学生は少しでした。
あ、そうそう、何人かの方には年賀状を頂いたのですが
昨年は不幸がありまして遠慮しています。
が、頂いた方には、寒中見舞いをお送りしております。
ほしい方は(??)メールをいただければ
住所をお知らせします。
って、なんか変だなあ。
ま、いいや。
手紙や葉書書くのももらうのも好きなんで。
リリッシュさん、ご指摘ありがとう。さっそくなおしました。
正月早々まじめにしているんですね(笑)
あらくれにほんかい さん
ようこそ。
あなたの人生もあらくれですか?(笑)
ホームページを拝見すると最近短歌をおやりだそうで。
へえええええええ。
なんか、印象と違う。これも、ナ○パのための道具ですか?
新年初っぱなに覚悟を示すために、年末に書いた
演劇と教育に関する文章を載せます。
まあ、みてやってください!!
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「材」としての演劇の現状と可能性
1.私の演劇史と演劇への思い
2004年8月、私は岩手大学の望月先生のお導きで、岩手大学附属小学校2年生ふじ組の子どもたちとスイミーの授業をする機会を得た。この経験は、私が封印していた「演劇の教育」への思いを、解き放した瞬間ともなった。
私は、中学からずっと演劇活動を行ってきた。中学高校では、新しく演劇部を作って活動を行い、大学では、既存の劇団に入って、授業にも出ないで公演三昧であった。卒業後就職した報徳学園中・高では、さっそく演劇部を作り、文化祭で上演した。愛知県立大学に転任した後もこりないで演劇サークルを作り、果てはそのサークルのOBOG劇団を作って自分も出演したりしていた。
広島大学に赴任後、演劇にかかわるチャンスを失っていた。 しかし、チャンスがあれば、なんとか演劇をしたい、できれば、教育にも生かしたいとは思っていた。だが踏み出せないでいた。
子どもを取り巻く外部の状況、子ども自身の内面の状況、競争主義が持ち込まれ評価の名の下に「選別」が行われようとしている教育状況、せっかく手に入れたコミュニケーション教育への手がかりを(「伝え合う力」はその名称は別として画期的な概念だと思う)テストの点が低いから(OECDの調査結果を詳細に分析すると、日本の子どもは詳細な読解はできているが全体の把握が弱いことがはっきりしている難波(2004)参照)と手放そうとする状況。
こういった状況に立ち向かう、「今生きていく力 難波と「未来に生きる力」(難波(2005)参照)を培うために、演劇が大変な力を発揮することは、私自身の経験からはっきりしているのである。
しかしながら、演劇の楽しさおもしろさ苦しさそれを乗り越えたことで手に入る力を、言葉で説明するのは大変難しいことも経験でわかっていた。とにかくやってみなければわからない、それが、演劇の世界なのである。したがって、演劇を国語(教育)とつなげて論じたり実践したりするには躊躇もあった。
2001年、中学高校と演劇を一緒にやってきた仲間であり現在も演劇研究の先頭を走っている小田中章浩氏(岡山理科大学)から、日本演劇学会の「演劇と教育」のシンポジウムに出ることを要請された。私はそこに参加して初めて演劇研究の人々の、教育への思いを強く感じたのである。ただそこには、自身の演劇理論を性急に教育へあてはめようとする気負いも見られた(その点については、難波(2002)参照)。やはり、(国語)教育の実践者・研究者が、演劇と教育について発言しなければと思ったのである。
私が、盛岡の地でスイミーを使って、「演劇と教育」をつなごうとする実践をした背景には、以上の前史があった。
2.スイミーの授業
スイミーの授業は、次のような流れで行った。子ども達は既に、「スイミー」の学習を1学期に行っていたので、私の狙いは、とにかく「楽しもう!!」ということと考えた。けれど、楽しむためには、手続きがいる。「楽しむためのスキル」である。言い換えれば、日常的な心身から離れ、演劇的(遊び的)心身になるための、言葉と身体の技術が必要ということである。
まずは、準備運動である。「あっ、あっ」と声を出しながらぴょんぴょんはねたり、体を思い切り伸ばして「ああああ」と声を伸ばしたりして、心身をほぐした。これは、日常的な心身から、「演じる心身」になるめの、「通過儀礼」となるものである。そして、これが、第一の「演劇のためのスキル」となる。
次に、できるだけ大きな声で読むこと、そして、点や丸だけで切ってあとは切らないで読むこと、だけを心がけて、「スイミー」全文を声に出して読んでもらった。その時、「声をそろえないで」と注意をした。
これらの注意は、「演劇のためのスキル」の重要なものたちである。「大きな声を出すこと」これは、日常性を離れ、日常的な言語慣習から解き放つ一つの大きな武器(スキル)となる。大きな声を意識的に出すことを知ってはじめて、「小さい声を出す」ことができる。声のコントロールができるのである。
次に「切って読む」ことであるが、将来的には、「自分の間で切る」ようになってほしいとは考えている。しかし、初めての演劇読みの時には、まずは、句読点で切り、それ以外は息を続けることを教えたい。なお、句点では2回うなずき、読点では1回うなずくなどの指導がときたま見られるが、演劇読みにおいては、百害あって一利なし、である。そろえるための読み方などは、「演劇的表現」とは無縁である。したがって、「声をそろえないで」という指示が大変重要なものとなる。声をそろえようとするとき、意識は、同じ舞台の共演者に向かってしまう。大事なのは、テキストと向き合うことである。
読み終わった後は、配役を決めた。これは、なりたい子どもがグループを作って、うなぎやいそぎんちゃくになるのである。スイミーは本当は1匹なのだが、赤い魚もスイミーもみんなでやった。スイミーをみんなでやろうと提案してくれたのは、ある男の子であった。
いよいよ演劇読みの開始である。このとき、最後の読みのポイントを言った。それは、「語尾を切って読む」というものである。点や丸をはっきり切って(伸ばさないで、腹筋で声を切って)読むだけで、心身にエネルギーが湧いてくる読み方になるのである。私は、近藤先生が作ったスイミーのお面をまぐろにして、まぐろになって読んだ。スイミーが海をさまよう場面では、海に揺られる身体動作をしながら役割読みをした。最後の「追い出した」の部分は、力を込めて強く一気に読むように言って、実際にやってもらい、30分の授業を終えた。
(この盛岡での実践を記録したものがあります。QZR04446@nifty.ne.jpまでご連絡下さい)
3.演劇という表現、演劇という「材」
演劇は、総合的な言語活動である。しかし、総合的な言語活動であれば、演劇であるわけではない。スピーチやプレゼンテーションやパネルディスカッションやディベートなどと異なるのは、「いつもの私ではない私」を表現していく活動であるという点である。また、演劇は、言語だけを含むものではない。広い意味での(表情など)身体表現を含むものであり、衣装や小道具/大道具などの美術表現を含むものであり、BGMや効果音などの音楽表現を含むものであり、その他照明、情報宣伝、などなどさまざまな表現を含んでいる。
それから見逃してはならないのは、演劇は通常複数の人間が複数の役割をもって行う活動であるということである。役者はある役を演じるし、スタッフはそれぞれの仕事を行う。それぞれの役割が性質の異なるものだからこそ、違う部署同士の連携は密接に行わなければならない。
したがって、演劇の場では、「連絡」という行為がとても重要になってくる。異なる部署同士だけではない。様々な役割の人々が一つの表現に向かう演劇だからこそ、「日常的なコミュニケーション」は大変重要になってくる。演劇というと、舞台上でのコミュニケーションばかりに目がいくが、このような日常的なコミュニケーションも大変重要になるのである。
こう考えると、演劇という活動には、さまざまな活動が含まれ、そこには、さまざまな教育への契機があるといえる。まとめてみよう。
(演劇に含まれる、教育への契機)
○日常的コミュニケーション
○舞台上でのコミュニケーション
・言語表現
・身体表現
・音楽表現
・美術表現
・・・
○「いつもの私ではない私」の表現
さてこの中でどの表現が一番演劇で重要だろうか。それは、もちろん、最後の「いつもの私ではない私」の表現である。ただし、これは、演劇の目標である。この「いつもの私ではない私」の表現を行うために、また、それを実現するために、他の全ての表現があるといえるのである。
私が盛岡で子どもたちに伝えた指示は、全て、演劇的になるための、スキルであり、私の経験から得たものである。演劇とは、私が、「いつもの私ではない私」を表現しながら、隠れていた可能態としての私を取り戻すためのツールであり、「いつもの私ではない私」他者に向かって表現している姿を見る観客が、いつもの私ではない私を発見していくツールでもある。
「いつもの私ではない私」を表現していくためのスキルとして、盛岡の子どもたちに示したのは、次のようなものであった。
(1)いつもとは違う体の動きをしながら声を出す
(2)大きな声を出す
(3)句読点だけで切って読み、あとは息を続ける
(4)人と合わせないで読む
(5)語尾を切る
「いつもの私ではない私」の表現に向かうために、ここでは言語表現だけをとりあげた。もちろん、これ以外に、身体表現やその他の表現がありうるだろう。大事なのは、言語表現にしろ、身体表現にしろ、「いつもの私ではない私」の表現に向かっているかどうかということである。言語や身体の表現が総合的にあるからといって、誰かに強制されたものを表しているのは、演劇ではない。
では、演劇を、教育における「材」と考えたとき、どのような学びがあり得るだろうか。
まず、なによりも、学習者自身が、「いつもの私ではない私」を発見していくということがあるだろう。カナダオンタリオ州の指導要領の、演劇科(Dramatic Arts)という科目の目標に、"to learn in a unique way about themselves(= students)"とあるように、日常では出会えない自分自身と出会う大きな機会をもたらすのである。
その他にも、先に挙げた表に示したような表現活動に伴った学びがあり得るだろう。例えば、言語表現で言えば、次のような学びの可能性がある。
台本を読み、人物の気持ちや行動を想定する
想定した気持ちや行動を他者に分かるように表現する
声のコントロールができる
演出の注意点をメモして自分の表現に生かす
言語表現以外の身体表現や音楽表現などなど全ての表現に学びの可能性があるだろう。また、日常的なコミュニケーションについても、実は大きな学びの可能性があることは先に述べたとおりである。(なお、演劇についての合科的な単元の提案については難波(2004)参照)
こうしてみると、演劇は教育において大きな力を発揮する「材」のはずである。
4.演劇という「材」の現状とこれから
しかしながら、現在の日本において、演劇が教育の中に根付いているとはとても言えない状況である。これにはいくつか理由が考えられる。一つは、一つの教科/科目にくくることができないということである。「演劇」という科目がないので、どうしてもどこかの教科/科目に入れ込まなくてはならない。そこには無理があるのである。
もう一つの理由は、日本の教育が、「いつもの私ではない私」を表現させることに抵抗感があったのではないかということである。「ほんとうの私」「複数の私の否定」といった観念が日本の教育の世界で強いために、学習者が「演じること」への嫌悪感があったのではないだろうか。「演じること」は、本心を隠したいけない行為である、という思いが、教師の奥底にないだろうか。
後者を払拭することはなかなか難しいことである。これに関しては、先に示した、「いつもの私ではない私」を表現していくためのスキルをさらに開発し広めていく中で、学習者や教師に体験してもらうしかないだろう。この体験は、国語科や学級活動、朝の会などいろいろなところで手軽にできるものを一層考えていきたい。
前者に関しては、「総合的な学習の時間」との連携で進めていくのが現実的であろう。これにかんしては、広島県で私が関わった二つの事例を紹介したい。
・広島県三原市立第一中学校の事例
2003年第一中学校の小迫教諭と中学2年生たちとともに、「わたし−たちの ことばが生まれる」という表現プロジェクトを行った。このプロジェクトは、国語科授業の部分と、総合的な学習の時間を練習時間にあてた表現パフォーマンスとで構成されている。小迫教諭は、国語科の時間を使って、すやまたかし氏の『素顔同盟』などの教材を使いながら、「日常で演じることの意識化」を行い、表現パフォーマンスの下地を作った。私は、公開研究会当日に行う表現パフォーマンスの構成・演出を行い、総合的な学習の時間で小迫教諭とともに指導を行った。この表現パフォーマンスは、以下のように構成されている。
(1)「日常のわたし−たち」パフォーマンス
「休み時間に遊んでいる中学生」を演じた。
(2)グループパフォーマンス
広島大学の学生・院生がリーダーとなって、アカペラや漫才などを、ブースに分かれて披露した。
(3)「わたし」を表現する文字パフォーマンス
自分の思いを文字にして書いた5色の紙を持って散らばり、無言でその紙を見せながら落としていく。
(4)「日常のわたし−たち」パフォーマンス
再び(1)に戻る。
この表現プロジェクトでは、国語科の授業と総合的学習の時間とが連携し、国語科では演じることの意味についての学習、総合的な学習の時間では、パフォーマンスの練習を行っている。また、当日のパフォーマンスでは、生徒たちが、日常の自分・なんらかの演技をする自分・日頃言えないことを表現する自分 の三つの自分を演じたのである。
・広島県東広島市立原小学校の事例
原小学校のある地域には、源頼政の妻、あやめの前の落人伝説が残っている。原小学校では毎年あやめの前をテーマにした郷土学習を、総合的な学習の時間に行ってきた。2003年は、木本教諭が台本を書いて、あやめの前にまつわる群読を行った。2004年は、この台本を基に、私が平家物語の一節を加えたり動きを加えた改訂版を作り(この改訂版は、私のホームページに掲載している。http://linhakusin.tea-nifty.com/blog/2004/11/post.html)学習発表会で、郷土パフォーマンスを全校で行った。
実際のパフォーマンスでは、群読・神楽・太鼓や三味線などの楽器・合唱、そして、簡単な動きなどさまざまな表現活動を行っている。
この郷土パフォーマンスのポイントは、郷土学習を通して、児童たちがあやめの前や夫の頼政に感情移入していっている点である。「いつもの私ではない私」を表現するためには、自分が心惹かれる誰かになることは強力な仕掛けになるであろう。小学校在学を通じて習う郷土の話を実際に演じていくは、特に最高学年の小学6年の女子はあやめの前を、男子は頼政を演じることは、児童たちの大きな体験になると考えられる。
私は、以上のような試みを、さまざまな機会/方法/場面で行っていきたいと考えている。その中で、国語科が今の国語科のままでいいのかという問いも、自然とわき起こってくると考えている。
(参考文献)
小迫洋子(2004)「「表現者」を育てる国語教育の実践」
広島県教育委員会エキスパート論文(未刊行)
難波博孝(2002)「演劇的な教材と国語教育」
日本演劇学会紀要、日本演劇学会、40
難波博孝(2004)「目指すべき読みの力とは何か−国際および日本の調査から考える−」両輪42号早稲田大学浜本研究室
難波博孝(2005刊行予定)『母語教育という思想』右文書院
難波博孝(2005刊行予定)「<国語科の解体/再構築>から<教科再編>へ」日本教科教育学会誌、日本教科教育学会、27-4
Ontario Ministry of Education(1999) The Ontario Curriculum , Grade 9-10 :The Arts
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コメント
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短歌はいいですよぉ。
ところで、難波博孝(2004)「目指すべき読みの力とは何か−国際および日本の調査から考える−」両輪42号を実は年末に読みました。とてもおもしろく読みました。はっきりしないところもありましたが、とにかく興味を持ちました。もしこのような方向についての研究や調査や勉強会を実施されるのなら混ぜてほしいなぁと思います。よろしくお願いします。本日の鳥取はかなり寒いです。雪はありませんが…。
投稿: あらくれにほんかい | 2005.01.05 17:08
まりりんです。
「いつもの私ではない私」。
これですよ、これっ!
表現者としての喜び。
自分から発してるのに、
今まで気がつかなかった自分の一面に
出会ったときの喜び。
まりりんの場合は歌だけど、うまくいったときの
自分の内側から湧き出るあの広がりといったら!
あの解放感はどこからくるのだろう。
でもあくまでも
能力を引き出してくれる歌の先生のレッスンを受けてるときですが。
演劇の場合はさらに、
その子の持っている人間的な根っこを引き出しながら指導できる教師でないと難しいでしょうね。
投稿: まりりん | 2005.01.05 01:03