<国語科の解体/再構築>から<教科再編>へ
以前、教科教育学会で発表したレジュメを
文章化して、学会誌に載せました。
その原稿をいちはやくここに載せます。
多分、だれかがまねするでしょうが、それはそれで
おもしろい。
では、どうぞ。
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<国語科の解体/再構築>から<教科再編>へ
(要約)
国語科をつきつめると、国語科をはみだしてしまう。にもかかわらず、昨今の教育状況は、評価基準・規準の名の下に、国語科の学習を狭い領域に押し込めようとする動きが加速している。そのような状況を打破し、さらに、他の教科領域もまきこんだ形での、国語科の6つの領域への解体/再構築を提案する。6つの領域とは、思考領域・思想領域・イメージ領域・コミュニケーション領域・メディア領域・表出領域である。そのうえで、活動と学習の弁証法的統一、つまり、計画や分析上での分離と実践上での一致を行いながら、6つの領域からの学習目標の明確な設定を行って実践を行うことを提案する。
(本文)
1.国語科をつきつめると国語科をはみ出す
国語科の授業をつきつめると、国語科をはみ出したり、抜け出したりしてしまう。そんな経験は、国語科の授業をもったことのある多くの教師が経験していることである。
例えば、「ごん日記を書こう」という広島県安芸津町立三津小学校の横田教諭の実践では、毎時間、子ども達は、「ごんぎつね」のある場面を読みながら、ごんになって「ごん日記をかく」という活動と「ごん日記を書いてみて」という作文活動とを行っていった。
子ども達がこのような二つの活動を行いながら「ごんぎつね」を読み進めていくと、「善とは何か悪とは何か」や「人と人とにはコミュニケーションが成立しうるのか」さらには、「生と死」の問題に、我が身をもって立ち向かわざるをえなくなる。その最も端的に表れるのが、最後の場面での「ごんの日記」である。ここで、子ども達は、ごんが死の間際にどのように振り返っているのかを、子ども達一人一人が問われることになる。これは、まさしく、文学を読む、という行為である。
しかし、このような一連の活動、及び、その活動から生成される「学び」は、国語科の領域を超えている。ここには、私たち一人一人の<倫理>を問い直す営みがあるからである。だから、この授業を「道徳」といっても全く差し支えがないだろう。
いやむしろ、国語科の文学教材の授業をつきつめていくと、人間の生き方に関わるのは当然なのだから、必然的に「道徳」の授業につながっていくはずなのである。
もう一つ例を挙げよう。「未来新聞を発行しよう」という広島県三原市立木原小学校の水間教諭の実践は、「海にねむる未来」という科学的な説明文を使っている。この教材では、3人の博士が登場し、それぞれの博士が海にねむるさまざまな資源を発見していったことが書かれている。しかし、教材の量的/質的制約のせいか、多くの情報がはしょって書かれてあり(このことは、国語科の説明文教材全般に通用することである)平易に短くまとまられることでかえってわかりにくくなっている。(繰り返すがこのことは、国語科説明文/評論文教材全般にいえることである)そのうえ、子ども達は、海の資源についての知識はほどんどない。既有知識がないうえに、理科で習うこともない。
水間教諭は上のような事情を考えて、教材の中に入っていく前に、学習者に3人の博士のどれかにならせ、調べ学習をさせて十分な知識を得させてから、教材に入り、そこで、他の学習者からインタビューの形で分からないことを博士役の学習者に質問する、という活動を行った。
後で質問されるとわかっているので、子ども達は、一生懸命調べ学習をして知識をまとめていった。そして、授業では、インタビュー役の子ども達の質問に見事に受け答えをしている。こうして子ども達は、意欲を持って豊富な知識を身につけ、また、インタビューの形でそれを表現していく中で、教材の読みとりを的確に行っていったのである。
これは、なんの教科の授業だろうか。子ども達が調べた海の資源に関する情報や手に入れた知識は、科学(理科)の知識である。この知識を前もってもっていたからこそ、教材文を意欲を持って読めたし、確実に理解できたのである。もし前もって調べ学習などせずに、教材文だけで読んでいたら、背景もわからず、知識や情報も中途半端な教材文にむきあって、ただただ、がまんして読んでいくだけの授業になってしまっただろう。
国語科の、説明文/評論文の授業は、その教材文を本当に理解しようとするならば、理科的/社会的知識が不可欠である。そのような知識を情報として与えたり、自分で調べさせたりする段階が不可欠である。熱心な教師であればあるほどそうするだろう。国語科の説明文/評論文の授業をつきつめていくと、「理科」や「社会」の授業につなっがいくはずなのである。
国語科の授業は、ことばを育てるものである。ことば(母語)は、しかし、生活の中で、子ども達は充分学んでしまっている。国語科の学習に比べ、生活の時間の方が圧倒的に多いからである。24時間×365日=8760時間(起きている時間だけにしても5840時間)に、国語科はわずか200時間弱で対抗しなければならないのである。
従って国語科が、子どものことばを、本当に改善しようとするなら、「実の場」から切り離された「お勉強」では、圧倒的な生活の時間に対抗できない。学校でも「実の場」を設定し、子どものやる気を起こし、「生活で培った言葉を作りかえ/改善し/豊かにする」行為に参加させなくてはならない。
国語科における「実の場」、それは、世界の全てである。国語科を真に国語科にするとき、国語科は世界に出て行かなくてはならない。国語科は必然的に国語科をはみ出すことになるのである。
2.国語科に落とし込むための方便とその限界
昨今の「評価基準/規準」の明確化の流れの中で、国語科実践を行う良心的な教師を追い込まないようにするために、私は次のような提案を行い、教師たちにアドバイスをしている。
それは、活動内容/目標と学習目標を区別して設定するということである。学習目標は、現行の国語科の枠組みの中の目標であり、国語科の評価規準(基準)といわれるものに対応している。しかし、例えば「文章の要点をつかみ的確に要約できる」といった目標だけを達成する授業は、国語科であって国語科ではないことは前述したとおりである。
そこで、私は、もう一つ、活動内容/目標を設定することを勧めている。それは、例えば、先ほどの「ごん日記を書こう」という単元であれば、毎時間「ごん日記」と「ごん日記を書いて」を書くことが「活動内容」であり、最終的に「ごん日記」と「ごん日記を書いて」を完成させ冊子にすることが「活動目標」である。この活動内容/目標は、国語科の授業を「実の場」にするための装置なのである。しかし、これは、あくまで方便である。なぜか。
学習は、評価と一体のものである。学習は評価されるからすすんでいく。しかし、上の枠組みでは、学習目標だけが評価されることになる。正確に言えば、学習目標だけ評価すればいいことになる。活動内容/目標は、現行の国語科の枠組みでは、評価しなくてもいいのである。
「ごん日記を書こう」の実践において、教師は当然毎時間、子どもが書いた「ごん日記」と「ごん日記を書いて」を集めるだろう。集めて「赤ペン」を入れるだろう。そこでは、子ども達の倫理的な価値認識を高め/深め/ゆさぶるような書き込みがなされることが期待されるはずである。
しかし、現行の国語科の枠組みでは、これらの教師の取り組みはしなくてもいいのである。なぜなら、活動内容/目標は、国語科の目標(評価規準/基準)ではないから。時間に追われている教師が、このような取り組みをする余裕を(まさしく現行の教育制度では「余剰」としかいいようのない目標設定ととりくみ)を失っていくことは想像に難くない。
実際、評価基準/規準を達成すしようという呼びかけが、評価基準/規準を達成すればいいという「言説」にすりかわっていっている。その結果、国語科は、「実の場」の設定する足場を失い始めているのである。やはり方便は方便でしかない。
さらに、現行の国語科学習目標そのもの(評価規準/基準)そのものの問題もある。現行の国語科学習目標は、現行の国語科領域に従って(つまり、「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」「言語事項」)で成立している。しかし、ここには、「身体表現」の項目がない。例えば、スピーチを行うとして、スピーチにおける身体表現は大変重要な要素である(視線、表情、身振り手振りなど)。しかし、国語科の学習目標に身体表現の項目がないために、これらの要素は、「学習として評価されない」のである。スピーチの学習を行っているにもかかわらず、スピーチの最も重要な要素を評価できない(改善のためのアドバイスは、現行の国語科では、オプションなのである)という致命的な欠陥をもった学習になってしまう。
さらに、現行の日本の教育制度/教科の枠組みでは、「演劇」や「映画」「ダンス」のような複合的な表現を「学習」として行うことはできない。これらの表現活動を学校で行っても、「学習目標」が、国語科/体育科/音楽科などにばらばらにされてしまい、またそれぞれの表現活動特有の要素(「映画」ならカメラワークのスキル、「演劇」なら舞台を広く使うスキル、など)が、全く「学習目標」として設定できないからである。結局これらの表現活動は、総合的な学習の時間に委ねられるか、「部活動」として行われるだけになるのである。これらの表現活動が、総合的な表現活動として多くの国々で「学習」として行われているのにもかかわらず。
3.難波の提案
3.1.国語科の6つの領域への解体
私は、上記のような現状をふまえて、次の三つの提案を行いたいと考える。
(1)国語科の6つの領域への解体(すでにここで他教科を巻き込んでいる)
(2)活動と学習の弁証法的統一(計画や分析上での分離と実践上での一致)
(3)6つの領域の学習目標の明確な設定
まず、(1)について述べたい。
私は、国語科を以下のように解体・再構築することを提案している。以下が再構築された領域である。
なお、下記に出てくる「モジュール」とは、「それ自体独自の機能を持ちながら、複合されることで別の新たな機能を持つことができるもの」という意味で使っている。つまり、それぞれの領域は、それ自体独自の内容と目標をもったものではあるが、他の領域と複合されることで、新たな教育機能の発揮が期待できる、ということである。
(A)コミュニケーション領域
話す・聞く・読む・書くを行うモジュールである。スピーチの仕方、説明文の情報読みの仕方、説明書の書き方、などを学ぶ。(他者に向けたコミュニケーション)
(B)表出領域
さまざまな感情の表出について知ったり、実際に行ったりする。詩、演劇だけでなく、絵や音楽とのコラボレーションなどについても学ぶ。(自己を表出させるコミュニケーション)
(C)思考(あるいは論理)領域
ここでは、論理的思考の方法、批判的思考の方法などを学ぶ。説明文や評論文だけでなく、あらゆる言語事象を使って、思考を鍛えていく。また説得の方法についても学ぶ。
(D)イメージ領域
ここでは、私たちの心の中にうごめく、さまざまなイメージ/イマジネーションについて学び、実践する。例えば、詩を読んでイマジネーションをふくらませる、地域を歩いて、その地域を覆っている民俗学的なイマジネーションを知る、などの実践が考えられる。
(E)思想領域
私たちの言語行為を裏からコントロールしている、私たちの「心の構え」、それを人によっては、信念とも、イデオロギーとも、素朴理論とも呼ぶだろうが、その「心の構え」について学ぶものである。
(F)メディア領域
メディアリテラシーを身につけるモジュールである。私たちが生涯にわたって出会うであろう、さまざまなメディアについて、どのように受け止めていけばいいか、どのように批判していけばいいかを学ぶ。メディアには、文字言語のものも含まれていると考えたい。また従来の読書指導はここに吸収される。
3.2.拡張された学習と活動の一体化
次に(2)と(3)をあわせて述べたい。
まず、(2)の「活動と学習の弁証法的統一(計画や分析上での分離と実践上での一致)」であるが、これは、第一に、学習者の実態や興味などに即して活動を設定することと、そこでどのような学習目標を達成させるかをはっきり区別して計画することである。第2に、明確に区別された活動と学習とを、有機的に統合させて実践を行うことである。
次に、(3)の「6つの領域からの学習目標の明確な設定」であるが、(2)で設定する学習目標は、従来の国語科ではもちろんなく、解体/再構築された6つの領域から設定されるべきであるということである。
例えば、単元例「宮沢賢治作品を劇化して発表しよう」で考えてみよう。
この単元での活動目標は、この単元名通りの「宮沢賢治作品を劇化して発表しよう」である。では、どの場面どの活動内容がどのような学習目標を達成できると想定できるだろうか。その対応関係は例えば、以下のようになるだろう。
(活動内容) (学習目標/学習領域)
作品選定 メディア領域
脚色/役割決め メディア領域 思想領域
本読み〜立ち稽古 表出領域
衣装作成 美術領域
小道具作成 美術領域 技術領域
大道具作成 美術領域 技術領域
音効プラン作成 音楽領域 理科領域
照明プラン作成 理科領域
情報宣伝活動 イメージ領域
リハーサル 表出領域
本番 表出領域
(学習としての振り返り・補充)
例えば、宮沢賢治作品からなにを台本化するかを考えることは、文学作品というメディアをどのように受容し批評していくかということになる。また、脚色したり役を決めたりするときにも、メディアリテラシーを駆使して作品を分析しつつ、作者の思想をとたえ、自分なりに消化するという学習も必要となってくる。
実際に劇の練習に入ると、大きく分けてキャストとスタッフの活動が行われる。キャストの活動では、自己を役に載せて表出する学習が期待できる。一方、スタッフとしての活動では、美術や技術の領域の活動の他に、理科(音や光の効果などの学習)が期待できる。また、情報宣伝活動では、ビラやチラシを作るので、芝居のイメージを具現化する学習が期待できる。リハーサルから本番までは表出領域の学習が期待できる。
最後の「学習としての振り返り・補充」は、ここまでの学習としての振り返りを行い、場合によっては、学習の補充を行う。例えば、照明プランの作成において、そこで学習した、光の特性やコントロールの仕方など以外に、光についてのその他の特徴を補充学習するのである。
4.最後に
ここで示した領域プランや単元例はあくまで一例である。しかし、現行の国語科では限界がきていることは明かである。さまざまな人々がさまざに考えを出し合い、改革の道に進まなくてはならない。なお、最後にいくつかの点をつけ加えたい。
(1)国語科が6つの領域に解体する際、他の教科の内容も改変されるだろう。
(2)6つの領域の学習目標は、必ず活動の中で達成されていく。
(3)国語科のセンター試験から、「小説」「古文」「漢文」の問題を廃止し、「論説文」だけにし、「思考」「思想」「メディア」領域の設問で構成する。「イメージ」「表出」「コミュニケーション」各領域の評定には、ペーパーテストでは限界がある。
(4)国語科の解体/再構築に全ての教科教育関係者が入ることで、他の教科の再編は促されるだろう。
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コメント
こういう真面目系の長文は反応が少ないので、わたしらしいのを少し書きましょう。
メディアリテラシーを、様々なメディアを受容し批判できる能力としていますね。しかし、どのメディアでも言えることですが作り手側と受け手側には、その分析能力に深い溝というか差ができますよね。どうしても作り手になったことがあるほうが受容し批判する能力が高い。
今、ほとんどがメディアの受け手側ですから、その立場での能力を考えていますか?
例えば自分達で教科書を作るならどんな教材を選び、どんな設問を設定するかというような実験をしたとしたら、教科書に対する分析能力も高くなると思うのです・・・多分。
そのあたりはどうお考えなのでしょう。
投稿: うじいえ | 2004.12.09 01:19
最後に、が過激ですね。
投稿: mj | 2004.12.08 23:56