最近、書くということで文章を書きました。
自分の考えが素直に出せた文章だと思います。
教育関係の本に載せるので、ちょっとそれっぽいですが
まあ読んでみてください。
琉那さん系にちょっと疲れた方へのブレイクでもあります(笑)。
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第1章 書くことによる学び
第1節 書くことはさまざまな側面を持つ
1 書くことに対する苦手意識
インターネットが普及し携帯電話のメール交換が盛んになった今でも、文章を書くことが苦手だという人は多い。では、「文章が苦手だ」という意識は、どこから生まれるのだろうか。
まず「何を書いていいのかわからない」ということがあるだろう。書く内容が混沌として書き始められないというのである。また、「どう書いていいのか分からない」ということもあるだろう。これには、いくつかの可能性が含まれている。まず、どのような組み立てで書いていいのか分からないという可能性である。文章の組み立てが見えないので書き出せないというのである。また、書く内容にふさわしい言語表現が見つからないから書けないという可能性もあるだろう。このような言語的な側面で文章が苦手だということの他に、「文章を人に見られるのがいやだ」という意識もあるかもしれない。
このような文章を書くことに対する苦手意識は、よくみてみるとどれも「書かれた文章は修正できない<結果>である」「私という人間が文章に表れる」という二つの文章観に支配されていることに気付く。この二つの文章観は、くっつくと「文章には、二度と変更ができない私という人間そのものがあらわれている」となってしまう。
このような考えが一面事実であるとしても、これでは、書くときにはいつも腕が縮こまってしまうし、書くことの可能性を著しく狭めていると考える。書くことにはもっと豊かな可能性があるはずである。本章では、書くことの豊穣さを、書くことそのものの性質から考えていき、それがもたらす学びの可能性へとつなげていきたい。
2 書くことのさまざまな側面
(1)書くことの<記録性>
先に述べたように、書くことへの苦手意識の根底には、「文章には、二度と変更ができない私という人間そのものがあらわれている」という観念があるのではないかと述べた。実はこれは書くことの一つの側面のみを強調して捉えていると考えられる。それは、書くことの<記録性>である。
文章は文字言語で作られる。音声が空気の中に消えていくのに対し、言語を空間にとどめようとして生まれたのが文字である。文章の<記録性>はこの文字によってもたらされる。<記録性>とは、とどめることであるから、変更することはあまりあってはならない(と考える)。また、文章に記録するのは、「書いている私」と同じ空間を共有しない誰か(未来の私も含めて)であるから、できるだけ正確に書かなければならない(と考える。)
このように書くことの<記録性>は、書くことの中で一番重要な性質のように見える。
(2)書くことの<対話性>
ここまでの文章を読んで、私が「文章」と「書くこと」を区別して書いてきたことに気づかれただろうか。私たちはややもすればこの両者を混同しがちである。しかし、「書くこと」は過程であり、「文章」は結果である。<記録性>は文章にとっての第1義としても、「書くこと」にとっては、結果としてできあがるであろう文章の<記録性>を前もって意識するというレベルのことのはずである。
しかし、書くことの苦手意識の根底に、「文章には、二度と変更ができない私という人間そのものがあらわれている」という観念があるとしたら、「結果」を先取りして不安になっているのである。
では、書くことの第1義は何か。私は、書くことの一番重要な性質は<対話性>であると考える。私たちはなぜ書くのだろうか。文章をただ残したいのではない。誰かに何かを伝えたいからである。何かを伝えて、誰かになにがしかの思考や行動を起こしてもらおうとしているからである。しかもその思考や行動は、書いた私の望むものであって欲しい。
つまり、書くことは、私が誰かに何かを伝えることで、誰かになんらかの行為(思考や行動)をかえしてもらおう(もちろん書いている私には直接返らないかもしれないが、私の望む行為を起こすことをこのように呼んでみた)とすることを念頭においた活動である、ということができる。書いているときには、書いている私の頭の中で、書いている相手を創造(想像)し(相手像を作り)、その相手像と対話しているのである。
書くことには、書く私と相手像との対話だけでない。「こう書いたらわかるかな。こう書いたら伝わりにくいかな」と、書いている私がもう一人の私に問いかけながら、書いている。つまり書くことには、私ともう一人の私との対話があるのである。
ここまでの「対話」は、書いている私の頭の中の「対話」であった。書いている私のなかで、「私」と「相手像」「私」と「もう一人の私」が対話しながら書き進められていく、このような「対話」以外に、もう一つの「対話」がある。それは、「書いている私」と「書いた相手」との本物の対話である。
現実の世界では、書いた文章を真ん中において、書いた私と書いた相手とが、本当に対話することは大変多い。教師と学習者、サラリーマンと上司、研究者と研究者など、書いた文章をもとにしながら、対話する機会は多いのである。文章には<記録性>が確かにあるのだが、現実には、文章はあくまでも対話をするための材料の一つとなることも多い。逆に言えば、対話をするために書いた、ともいえるのである。
このように、書くことには、書いている私の頭の中に起こる、いわば<内なる対話>と、書いた文章を基に対話が起こる、<外なる対話>の、それぞれの契機となる性質が含まれているのである。
(3)書くことの<思考性>
書くことが含み持つ<内なる対話性>は、そのまま<思考性>へとつながるものである。つまり、書きながら頭の中で、「相手像」やもう一人の私と対話していくことは、そのまま「考えること」そのものといってよいだろう。そのときの「思考」とはどのような性質のものだろうか。
秋田氏は書くことは「広く不確定」な問題を「解く過程」としている(p.93)。書くことは、はっきりとは見えていない問題を解こうと一生懸命になっている過程そのものなのである。誰かに手紙を書く時、仕事の文章を書く時、子どもが書いた連絡帳に返事を書くとき、それぞれが答えどころか何が問題かすらよくわからない問題を解こうと頭がフル回転しているのである。「これでいいのか」ともう一人の私や「相手像」に問いかけながら。
ここでは、書かれた文章や文字は重要ではない。言い換えれば、文章や文字を書くことが<思考性>においては重要なことではない。書こうとする意識のベクトルそのものが重要である。そのベクトルが、私たちの思考を動かし高めるのである。
それなのに、書かれた文章だけが気になり出すと、<思考性>は消えていってしまう。結果ばかりに意識が集中すると、書こうとする意識のベクトルは失われ<思考性>は衰えてしまう。書くことの<思考性>は、書くことそのものへの過度の意識化を避けることによって確保されるのである。
(4)書くことの<協同性>
書くことが含み持つもう一つの<対話性>、<外なる対話性>は人と人とを結びつけ、共同体(コミュニティー)を作る<協同性>へとつながっていくものである。牧戸氏は書くことが協働(コラボレーション)につながり、共同体が生成・更新される契機となることを指摘している。
書いた文章を相手が読む。そこで書いた人の思いを受け止める。そこには既に今までとは異なる関係が生まれる芽生えがある。それがたとえ仕事の文章であったとしても、書いた人と読んだ人との間には、新しい関係が生まれる可能性がある。文章を間において、両者が話し合うことがもしあるとしたら、あるいは、読んだ人がなんらかの反応(返事、批評、コメント・・)をしたとしたら、そこには、ただ情報をやりとりするだけではない、「人間関係」の生成・更新が起こっている。
けれど、書いた文章の批正に終始したり、相手の考えに対して自分の考えを反論してみたりするだけでは、せっかく書くことが持っている<協同性>が発揮できないままになってしまう。相手との関係をレベルアップする可能性を封じてしまうことになるのである。
書くことの<協同性>も、書いたものそのもの(文章)への過度の意識化を避けることによって確保されるのである。
第2節 書くことが開く世界
書くことには<記録性><対話性><思考性><協同性>の4つの性質があることを述べた。これらの性質をうまくいかして、書くことの可能性をもっともっと開くことはできないだろうか。ここでは、書くことにはどのような世界を開くことが可能か考えてみたい。
1 記録する・記憶する
書くことには<記録性>があるから、書くことが開く世界にはまずは「記録する・記憶する」という活動が開けてくる。ところで「記録する」ということはわかるが、「記憶する」とはどういうことだろうか。
これは、紙や電子上に「記憶する」ということであり、自分の記憶の代わりに使うと言うことである。言い換えれば、媒体に「記憶させる」ことで、書く本人は「忘れる」ということである。
書くことにより「忘れる」利点はとてつもなく大きい。毎日毎日膨大な情報にさらされている私たちを守る術となるのは「忘れる」ことである。しかし、全ての情報を忘れては行けない。そこで、必要な情報だけは記録し(媒体に記憶させ)本人は忘れるのである。
学習者がノートを取ることにより、「覚えている」と考える教師がよくいるがそれは間違いであることは明かだろう。学習者は、もっと楽しいことを記憶するために、試験に出ることはノートに記憶させた上で忘れるのである。そしてそれは、書くことにより開かれたすばらしい世界である。そうしないと私たちはあふれる情報にもがき続けるだろう。
2 広げる
書くことには<思考性>がある。<思考性>がもたらす可能性は限りなく広い。まずは広げるという思考活動が見えてくる。まずは思考を極限まで広げてみる。そうすると自ずから(とならない場合もあるが)考えるべき範囲が確定するのである。
あるテーマについて調べることを求められたとき、まずはそのテーマに関わることで思いつくこと知っていることをどんどん広げて書いてみる。一人ブレインストーミングである。ここで書いたことが多ければ多いほど、どの範囲で考えるべきかが見えてくる。思いつきを書くことが、書くことの<思考性>をますます刺激するのである。
ここで気をつけなければならないのは、広げる思考を行っているときは、書くことの<対話性>は少し控えておかなければならないということである。というのも、「もう一人の私」や「相手像」と対話してしまうと、ついつい広げることを抑制してしまうからである。「こんなことはテーマには直接関係ない」「これは相手にはわかりにくいことだ」と自己検閲してしまうのである。
広げるために書くときは、メモ用紙や付箋紙などにどんどん書いていく。量を多くすることが、肝心である。広げるために書いているときは、自分を抑制してはならない。
3 深める
書くことの<思考性>を今度は深めることに生かしてみよう。広げるだけ広げた考えを今度は深めてみる。目の前に広げられたアイデアメモを一つ一つ見ながら、次のような観点で考えたことを書いてみよう。
・対比的なことはないか ・類似するものはないか
・もっと具体化できないか ・もっと抽象化できないか
・事例はないか ・反証はないか ・原因は何か
・結果は何か
もっと他にも観点があるだろうが、とにかく一つ一つ広げて書かれたことをさまざまな観点から深めていく。このときも、<対話性>による検閲は控えることが大切である。
4 まとめる
いよいよ<対話性>の出番である。<内なる対話性>により、もう一人の私や相手像と対話しながら、広げられ深められた考えをまとめていく。KJ法のように、書いた紙をとにかく分類し、くくって、見出しを書いてみてもいい。あるいは、広げ深められて書かれた紙を見ながら別のノートに分類(構成)項目を書き記し、その項目に沿って書いた紙を並べてもよい。まとめる作業では、「これはいる」「これはいらない」という取捨選択が十分行われなければならない。
私はこの文章を次のような手順で書いている。まず、テーマに沿ったアイデアをどんどんワープロソフトに書き込んでいく(広げる)(なお、私はこの段階での「書く」ためには、ワープロソフトよりも「インスピレーション」のようなアイデア支援ソフトをよく使う)。広げるだけ広げると、それぞれの項目について思いついたことや事例などなどを書き足していく。場合によっては文献で調べたことなども書き足していく(深める)。
次はまとめる段階である。広げられ深められた項目(とその下にはいろいろな情報が付け加わっている)をまとめていくのである。並び替えたり項目を削ったり加えたり、上位項目だったのを下位項目にしたりなどなど(「インスピレーション」はこの作業が大変手軽にできる。また図への変換も可能なので視覚化して考えることもできる)。ここまでの全ての段階で、それぞれの「書く」があるのである。
5 気付く
<思考性>によって広げられ深められた項目を、<対話性>によってまとめていく。実はその過程で、書くことの<対話性>が持つ、もう一つの世界が生まれることがある。それが「気付く」ことである。
<対話性>には、私ともう一人の私との対話が含まれていた。「気付く」は、意識化された「もうひとりの私」ではく、無意識の中の「もう一人の私」との「対話」によって生み出されるものである。
書くことによって「広げたり」「深めたり」あるいは、既にまとめの段階に入っているときに、思いもかけないものが頭の中に浮かび上がってくることはないだろうか。「私はこんなことを考えていたのか!」というようなことが。そのことは、今焦点に据えているテーマと直接関係のあるしかも大変重要なアイテムかもしれない。あるいは、今関わってるテーマと直接関係がないかもしれないが、そのテーマよりも自分にとってもっと大切な事柄に関わることかもしれない。そのような、「気付かないでいた」ことと出会うこと、それが「気付く」である。
「気付かれたこと」ももちろん頭の中にはあったのかもしれない。しかし、なにもしなければ出会うことはなかった。書く過程において「広げ」「深め」「まとめ」ていく過程で、またそれらを実際に「記録」し紙などの媒体に「記憶」させていく過程で、頭の中のもやが晴れていき、私の無意識の中からひょっこり顔を出すのである。「気付き」は、思いがけない私との出会いであるが、書くことにより、思いがけないサプライズであっても、それを演出することができるのである。
6 贈る
次はもう一つの<対話性>、<外なる対話性>が開く世界である。話す言葉と違って書いた文章は、<記録性>によって形に残る。しかし、ただ形になって残るだけではない。それは、書く人とは別の人(書いた本人も含めて)に実体的に「見せる(読ませる)」ことができるものである。逆に言えば、私たちは、誰かに(未来の自分も含めて)「見せる(読ませる)」ために、文章を書くのである。
よく「相手意識」をもって書きましょう、という指導がされることがある。それは間違ってはいないけれど、本来は「相手意識」がなければ、人は文章など書かないのである。私たちは、誰かに「見せる(読ませる)」ために文章を書いている。つまり、<外なる対話>をもとめて文章を書くのである。<外なる対話>が求められていなければ(したくなければ)人は文章など書かない。
本を読んで、誰かにその感動を・批判を伝えたいから、文章に書くのである。ある本読んでも感動が・批判が起こらなければ、文章を書きたいとは思わないだろう。
「見せる(読ませる)」ということと実体的にそれを送るということを合わせて、「贈る」ということばで表してみよう。文章を書くことは、常に「誰かへの贈り物」である。その贈り物が、書いた人にとっていいものかどうか、また、送られた人にとっていいものかどうかは別である(本当はいつもそうであってほしいが)。誰かに、自分の思いを「贈りたい」から、私たちは、筆をペンをキーを触るのである。「贈りたい」気持ちがないところに文章は生まれない、はずである。
7 つなげる
では、誰かに文章を「贈る」として、どうして私たちはそれを文章、にするのだろうか。音声でもことばを「贈る」ことはできる。しかし、その音声は消えていってしまう。だが、文章はその<記録性>によって、「贈られた」相手に残る。「贈られた」相手は、その「贈り物」を何度も見る(読む)ことができる。そして、その度に「贈られた」相手は、「贈った」人の思いを、想像しなおすのである。こうして、「贈った」人と「贈られた」人との間の結びつきが強まっていく。これが、先に述べた、文章の<協同性>である。
人が人にものを贈るのは、その人との関係を強めたいからである。先に述べたように文章は人に「贈る」ものであるから、当然、そこには「つなげる」力が生まれる。けれども、文章は、ただの贈り物ではない。
文章の場合は、おかえしに、「贈られた」文章そのものを使うことができる。相手が書いた文章に書き足したり、すこし変えたり、相手の文章への感想を書いたりして、相手にかえすことができる。学校の先生は、子ども達が書いた生活記録に赤ペンをというおかえしをしている。コミュニケーションを大事にしている企業の社長は、社員から贈られてきたメールの返事に、その社員のメールを適宜引用しながら返信メールを書いている。ある研究者を信奉している大学院生は自分の論文にその研究者の論文を引用しながら自分の論文を書いてその研究者へのオマージュを表現する。
文章という「贈り物」は、人と人との間を、「思い」という目に見えないものでつなぐだけではない。相手の文章そのものに加えたり削ったり引用したりしながら、形としてつないでいくことができるものなのである。文章の<協同性>は、形に表せるものなのである。
第3節 書くことが開く学びの世界
1 生活綴方的教育方法
ここまで述べたように、「書くこと」は<記録性><思考性><対話性><協同性>という性質を持ち、「記録(記憶)する」「広げる」「深める」「まとめる」「気付く」「贈る」「つなげる」という世界を開いていくものである。このようにして書くことが開く世界は、学びそのものといってよいものである。つまり、書くことそのものが、「記録(記憶)する力」「考えを広げる力」「考えを深める力」「考えをまとめる力」「考えに気付く力」「人に表現する力」「人と人をつなげる力」を育てていくものなのである。
書くことの、学びへのこうした可能性を利用したのが、生活綴方的教育方法と呼ばれる教育方法である。小川氏は、「生活綴方は子どもに、自由と自己と生活わ語ることばを与え、子どもをしばっている感情と固定概念から子どもを解放し、子どもに生活の事実を、たしかに、こまかく、さまざまな関係と変化において、リアルに見つめさせる教育である(p.46)」としている。このような実践を教育全体に広げたのが生活綴方的教育方法である。
生活綴方というと、国語科の範囲に入るものと考えられがちであるが、小川氏は「生活綴方はいつ書かれるにせよ、それによって教育の全活動が正しく進められるための、基礎的な仕事をしているのである(p.57)」と述べている。
例えば、今日の授業で学んだ教科の内容を文章にしてみる。学んだことを改めて文章にしてみることで、学んだことが「広がり」「深まる」。そしてまだ曖昧にしか分からなかったことに「気付く」。それを友だちに見せる(「贈る」)ことで互いの分かったこと分からなかったことを学び合う。そして、友だちとの関係がより深く「つながる」。それらの全てを「記録」することで、いつでも振り返られるのである。
書くことによって、その教科の学びが深まり広がるだけではない。人が学校にいてもまた学校を出た後もずっとその人を支えていくはずの自己学習力の根幹にあるはずの、「記録(記憶)する力」「考えを広げる力」「考えを深める力」「考えをまとめる力」「考えに気付く力」「人に表現する力」「人と人をつなげる力」も、書くことは同時に育てていくのである。
2 ノートの復権
以上述べてきたきたような、書くことの特性とそれが開く世界とを十分活用していくためには、つまり生活綴方的教育方法で学習を行っていくためには、教師が作ったワークシートでは不十分である。不十分というよりも、ワークシートでは教師の規制が強すぎて、書くことの特性を十分生かし切れないのである。
書くことの特性とそれが開く世界を活用するためには、ノートを使いこなすことが重要である。従来の教育現場では、ノートというのは先生が板書したものを写すものであった。しかし、これでは書くことの特性の<記録性>しか生かしていないことになる。板書をノートに写したら、そこに、学習者が自ら考えたことまだわからないことをどんどん書き込んでみたらどうだろう。書き込んだら、それを友だち同士で見合って、意見交換をし、そこで気付いたことをまたノートに書いてみよう。子ども自身の言葉で埋め尽くされたノート。決してきれいとはいえないかもしれない。しかし、きれいだけのノートには<記録性>の特性しか生かしていない。真っ黒になったノートは、子ども達の学びの証である。
いろいろ考えたことばを、次の真っ白いページも今度はじぶんなりにまとめてみよう。どんなふうにまとめるかは、学習者次第である。まとめたものを先生への「贈り物」としてみよう。先生のワークシートから出発した学びは、学習者一人でまた友だち同士で書くことを通して広げられ深められ、再び先生に返されることになる。「先生に教えてもらったことから私(たち)はこんなに考えました。その結果わかったことはこれでまだわからないことはこれです。さあ先生は次になにをしますか?」子ども達から文章が「贈り」返されたのである。
このようにしてノートに書くことを積み重ねてみよう。ポートフォリオなどということをあらためて言う必要などない。ノートには、学習者の学びが、蓄積されて<記録>されているのである。しかも、学習者自身のことばに埋め尽くされて。書くことの学びは、学びの履歴が書かれたノートという、すばらしい贈り物を、学習者自身にもたらすのである。
秋田喜代美『読む心・書く心』北大路書房 2002
小川太郎、国分一太郎編『生活綴方的教育方法』明治図書 1957
牧戸章「「書くこと」と〈対話〉〜協働〈コラボレーション〉で書く〜」
『<対話>をキーワードにした国語科授業の改革』実践国語研究 12月号 別冊 2003
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