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ちょっと聞いて!!

これは研究ネタではあるけど、教育関係者以外の人もせひ聞いてください。

実は、今私は、全く書けなくて困っている論文があります。(しかも二つも)

それは、「文学教育」の論文なのです。(二つとも!!)

文学教育とは、物語や小説(場合によっては詩や短歌俳句も)を教材にして国語の授業を行う
というものなのです。

私は、文学にはいろいろおもしろい力があると思うのですが、授業になるとその力は
全く発揮できないと思ってしまう人間なのです。
つまり、授業という形では文学は無力だと思ってしまうのです。

で、書けない。

そこで、このHPを見ている、全てのみなさんに聞きます。

文学を教材にして授業する意味、価値、はなになのでしょうか。
今教師の人、元学習者の人、今研究者の人、今学習者の人、保護者の人
いろいろな人の、あるいは、同じ人でも立場を変えて、意見を聞かせてください。

私を助けると思って、どんな意見でも結構です。

お願いします。

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コメント

なんばせんせいを13才のときから存じ上げている背後霊のおだなかです。なんばせんせいの

「文学教育とは、物語や小説(場合によっては詩や短歌俳句も)を教材にして国語の授業を行う」

という前提の中に問題があるのではないか思います。この場合の「物語」や「小説」(場合によっては詩や短歌俳句)というのは、誰が作ったものを指すの? もしそれが評価の確立した「作家」のものを言ういうのだとしたら、そうしたものを教える授業がつまらない=力を持たないのは当然ではないかな? それは単に確立された「評価」の押しつけになる可能性があるからです。

 改めて説明するまでもないことですが、作品を作る人=作家と、作品を鑑賞する人=読者が明確に分かれているという状況そのものが、近代的なパラダイムに囚われています。作品の作り手と鑑賞者が同じ土俵の上に立つ、という「文学」のあり方も十分に考えられます。
 特に日本の場合には、和歌や俳句に見られるように伝統的にそうした傾向が顕著なわけでしょう? さらに最近の文学賞をめぐる状況(作品を読む人よりも応募者の方が多いのだとか)を見ても、これからの「文学」というのは作り手と受け手の接近という状況に向かっているように見えます。

そうやって実際に自分が作り手の立場に立つことで、とりあえず何の役にも立たない「言葉」によって他者とコミュニケーションする楽しさもわかるだろうし、いわゆる「名作」の着眼点のすばらしさや表現のすごさがわかってくるだろうと思います。

だからこれからの「文学」の授業は、作り手=享受者という発想を押し進めるしかないと思います。その意味においてブログのような媒体の発達は今後の「文学」の授業を大きく変える力を持っているはず。

実はそうした発想で私は「文学」の授業をやってきたわけですが。

興味のある人は

http://150.55.68.40/odanaka/

をご覧ください。

えっと、院生です。一応「今研究者」で、もうすぐ「教師」です。
とても難しい問題ですね。私自身、今いわゆる「文学教育」を研究しているわけですが、研究しながらも常に考え続けている問題です。

今の段階で私が言えるのは、takaさんが仰有っているように、自分ではない何者か(「他者」と呼んで差し支えなければ「他者」)の視点、ものの見方、考え方、体験をくぐりぬけることによって、立ち止まり、自己を見つめ直すこと、ではないだろうか、と。それに伴って、主体の変革、更新とか認識の変容といったことばもよく使われますが(私自身もよくつかってしまいますが)実際には必ずしもそんなふうにヴィヴィッドに「変わる」ことは必要ないと思っています。takaさんが自分の内側に「空間」をつくると仰有っていますが、私はそれを「空白」とも呼ぶことができるのかなぁと思います。何かを書き込むためのスペース。あるいは「胚」。まだ何になるか、どんなふうにふくらんでいくか未知数な部分。それはその人が生きていくなかで、その人が考えたり、経験したりすることと不意に結びついたりして、何かまったく新しいものに書き換えられたり、あるいは発達していったりするものだと思います。そういった「空白」「胚」を作りだしていくのが文学の「虚構の力」なのではないか、と。

あるいはそういったことは「文学教育」ではなくてひとりの読書で言えることであり、教室に持ち込んだ途端に無力化するのでは?というのが管理人様のいわれていることかもしれません。ただ私自身が今考えていることは、「文学の授業」をひとつの「文学」あるいは「物語」として捉えていくことが出来ないかな、ということです。学習者は文学テクストに反応しながら、その文学テクストに反応している「他者」のものの見方や視点をくぐり抜けていきます。そのことは、学習者にとってはより複雑で豊かな「空白」「胚」(豊かな空白という表現はオカシイですが、より許容力のある、くらいの意味で)をその内側に生みだしていくことになるのではないかと。そこには、「読む」という行為の複雑さと微妙さとでも言うべきものが、教室のなかで交錯することによって、一人読書のときとは違う形の「虚構の力」が生まれていくのではないかと思います。

ただこの「虚構の力」を生みだしていくためには、学習集団をどう組織するか、授業における教師の指導性のあり方、主体的な学び手として学習者を学びに関わらせていくこと、など「文学の授業」という「文学」をどう立ち上がらせていくのか、組織していくのかということが重要になってくると思います。そういった部分までも含めたものが、「文学教育」なのではないか、と私自身は考えます。
長くなって失礼しました。

えっと、「今研究者」です・・・。
「文学教育」が国語の授業で教材を読むことだという前提に立てば、「で、書けない」という感じはわかる気がします。でも、それは原稿依頼者がそのように書いて、と言っているだけで、それにとらわれる必要もあるのでしょうが・・・とらわれなくてもいいように思って・・・抽象的ですね。「文学教育」ということばを一切使わずに「文学教育」について書く、というふうな気持ちで書くというのはどうでしょうね。また、創作したり、レトリックを使って演説したりということetc.も私は「文学教育」なんじゃないかと思います。赤瀬川源平の路上観察学や同じような南伸坊の「ハリガミ考現学」も、それはそれは立派な「文学教育」だなぁといつも思っています。(拡張しすぎですね・・・ごめんなさい。)
 文学を教材にして授業することの価値→いろいろな意味で生きている私たちを「中断」させること。自分ではない者の視点や体験等を(虚構のそれとして)くぐり抜け、その上で多くを忘れることによって、内側に「空間」をつくる、ということ。かなぁと思います。そういうことが他の種類の文章「よりも」できるのではないかな、と。うーん。でもそのときの「文学」って何かなぁ、と素直に思います。
 と偉そうなことを書いてしまいましたが、私もまた書けずに困っている論文を抱えている者の一人ではありますが(笑)「全てのみなさん」への呼びかけだったので、初めてでしたが反応してしまいました。長くなりそうなのでこの辺で!

すみません。コメント白生地やでした。

>だけど、あれが教室に持ち込まれるとなぜかおもしろくなくなるだよなあ、と思ってしまいます。

>おもしろい小説でも授業ではまったくおもしろくなくなるのと似ていると思います。

また白生地やでございますが、私は教育関係者でもないので聞き流して頂いて構いませんが、教室での主導権を誰が握っているのかな、とちょっと気になりました。できれば授業を受ける側の好奇心を駆り立ててくれるような教室であって欲しいのですが、現実にはそれはすでに文学からかけ離れているということなのでしょうかねぇ。何も分からないのにすみませんでした。
論文、少しでも負担なく仕上がるといいですね。ご成功をお祈りいたします。

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