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ずっと書き足している文章

お初の文章は、この5年の間にあちこちでバージョンアップしながら書いていった文章です。
ここに載せたのは、「国語の授業」2003年12月号に載せました。
思い入れがあります。感想などお聞かせ下さい。

メディアに立ち向かう力を育てるために
広島大学 難波博孝

1.全ての子どもが棄てられている
1998年6月8日号の「アエラ」には、私たち教育に関わる人間に、鉄槌を食らわせる記事がありました。それは、「四割の子供が棄てられている」という吉岡忍氏の記事です。
吉岡氏は、酒鬼薔薇少年がいた学校と町、女性教師を刺殺した少年がいた学校と町、家庭内暴力の果てに父親に殺された少年が住んでいた学校と町を訪ねていきます。環境も立地条件も異なるこれらの学校や町を訪ねながら、氏はそこに共通の問題点を見つけます。それは、学校や教育、教師の存在の希薄さです。あれほど、教育の重要性と改革の必要性が叫ばれながら、これらの事件には学校や教育、教師の影がひどく薄いのです。
そこから、氏は現在の授業がいかに子どもをひきつけら


れなくなっているかを指摘していきます。今や四割の子どもが、授業から棄てられているといいます。「教師の声は、彼や彼女たちの頭上やわきを通り過ぎていくばかりで、体にかすりもしない」
そして、氏はいいます。「いったい、一般の授業−国語や算数・数学や英語や社会や理科や音楽や図工は何をしているのか」「現在の教育がぶつかっているのは、この教科学習の問題なのだと私は思います。学校は四割の子供たちを取りこぼしているというのも、各教科が全然おもしろくないからです。子供たちの日常的な経験や感覚から遊離し、学ぶことの動機形成にまったく役立っていないからです。」
四割だけでしょうか。あとの六割の子どもたちには、教科の授業が生きていくための力を培っていけているのでしょうか。
私が勤めてきた、そして現在勤めている大学は、いわゆる「いい子」の学生たちが集まっているといわれています。小中学校時代は、授業についていけただけでなく、教師の手伝いをしたり生徒会活動をしたりと、学校の中心にいて活躍した学生が多かった。「わが校の宝だ」といわれた学生もいます。
その学生たちにも、小中学校の授業の存在価値は希薄でした。彼たち彼女たちは、「いい子」であることに努めてきました。しかし、その心の奥にある、寂しさ・悲しさに、教師や授業は触れることは少なかった。彼たち彼女たちに、小中学校時代の本当に楽しかった思い出を書いてもらっても、あんなに学校で活躍していたはずのに、ほとんど書けないという学生が多いのです。彼たち彼女たちが、なぜ必死になって「いい子」になってきたか、その心の内部に、学校は、授業は、入り込むことができなかったのです。
国語は、ことばの力を育てる教科です。ことばの力とは、いったい何なのでしょう。いろいろな考え方があるかも知れません。ただ、少なくとも、次のことは言えそうです。ことばの力とは、自分の思いを他者に表現し、また、他者が表現したことを受けとめながら、他者との関係を作っていく力が含まれていると。
しかし、事件を起こした子供たちも、私の大学に通っている元「いい子」たちも、自分の思いを表現し、また、その思いを受けとめてもらった体験が非常に少ないような気がするのです。また、国語科でそのような体験を培うような授業を、私たち教師が、あまりできていない気がするのです。
吉岡氏は、酒鬼薔薇少年の作文の一節にあった、ダンテのことば「人の世の旅路の半ば、ふと気がつくと、俺は真っすぐな道を見失い、暗い森に迷い込んでいた」を引用しながら、「ダンテのことばがリアルな内的体験として当時十四歳の少年の心をとらえていたという事実を見逃すことはできません。教科としての国語、それを教える教師は少年の内部の経験に拮抗できなかった。そこに踏み込むどころか、かすりもしなかった」と述べています。このことは、彼だけにとどまらない。全ての子どもたちが、授業から、国語の授業から、棄てられているかも知れないのです。
2.それなのに、教育界は・・・
最近の教育界は、「基礎・基本」の重視を言い立て始めました。少し前は、国語科であれば「伝え合う力」でした。その前は、「生きる力」だったですね。目まぐるしく、教育のキャッチフレーズが変わっていきます。この変化は、子どもの変化に応じて行われているのでしょうか。子どもが変わったから、教育のキャッチフレーズも変わっていったのでしょうか。
もちろん違います。この変化は、大人の都合です。子どもと直に接している、実践者・カウンセラー・研究者などは、これらのキャッチフレーズが、子どもの頭の上を通り過ぎていること、いや、教師でさえも実感を持てないまま、これらのキャッチフレーズに振り回されていることを知っています。
そして、これらのキャッチフレーズを言い立て、それに乗っ取って行われた、様々な方策についての検証を行ったり、その結果に対する責任を誰かがとったりすることもなく、「教育」というお芝居は、次々と場面転換していきます。
でも、教師は、この「教育」というお芝居の観客ではありません。その舞台に出させられている、当事者です。次から次へと台本が変わっていくなかで、教師は無力感にさいなまれ、ただ変化する台本についっていっているだけなのではないでしょうか。
でも、教師達は子どもの前では真摯であろうとします。子どもの切実な声を多くの教師は聞きつつ、与えられた台本とのギャップに引き裂かれていくのです。その中で、教師の心は、荒廃していきます。
教育界に新しいキャッチフレーズが出るたびに、教師は振り回され、子どもは再び棄てられていくのです。
3.メディアの影響−地道な研究から見えること−
例えば、次のような研究を、教育界(特に国語教育界)の人々は、どのように受け止めるでしょうか。
金原克範氏は、「“子”のつく名前の女の子は頭がいい (洋泉社 1995年)」という著書の中で、テレビの影響が現在の親世代に与えた深刻な影響について指摘しています。それは、現在の親世代が、テレビの登場によって、それまでの相互交流的な情報の処理から、受動的な情報処理をするように変わったということです。つまり、現在の親世代は、それまでの世代が他者と相互に関わりながらコミュニケーションを行っていたのに、テレビという圧倒的で刺激的な情報を送出するメディアの登場で、テレビから送られる情報を自分で吟味しないまま受動的に受け入れるようになり、ついには、主体的な判断を行いながら他者とかかわり合うことができなくなっていったというのです。
そのため、現在の親世代は、子世代ともいきいきとしたコミュニケーションを行うことが難しく、そのため子世代も、小さい頃から他者と相互にかかわり合う体験を経ていないために、それができなくなっているというのです。金原氏は若者がコミュニケーション不全に陥った原因の一つとして、親世代に与えたテレビの影響を指摘したのです。
確かに、現在の若者を含めた子供たちの、コミュニケーション不全の全ての原因を、親世代へのテレビの影響に帰するのは問題があるでしょう。しかし、テレビの出現により私たちのコミュニケーション状況が一変し、実感も経験もないまま情報のシャワーを浴びるようになったのは事実であり、そのような状況は、この40年ほどの特異な現象であることは事実です。
そのような状況に私たちの社会がしっかり対応できているとは思えません。大量情報を受動的に浴びることが、私たちのコミュニケーション状況にどんな影響を与えているかを、私たちはそれほど把握できていません。ただ、そのような議論さえ全くされていなかったテレビ第一世代の現在の親世代に、テレビがとても大きな影響力を発揮したことは否めないし、金原氏は指摘するように、その影響が世代を越えて及んでいっていることも十分あり得ると思うのです。
最近になってようやく「メディアリテラシー」という考え方ができましたが、金原氏の研究のような社会学の成果によって、テレビというマスメディアが直接的に影響を与えるだけでなく、間接的にパーソナルコミュニケーションにも影響を与えている可能性を指摘されたとき、教育界の人間としては、このような指摘をふまえて、ことばの教育のことを考えなければならないはずです。
いや、多くの実践者・カウンセラー・研究者は、すでにそのことに気付き、さまざまな実践や研究を行ってきたはずです。なのに、結局教育界は、そのような「下からの動き」をふまえず、「上からの」キャッチフレーズで動いています。そして、そのキャッチフレーズを疑問を持ちながら、引き裂かれながら受け入れているのです。
4.「今生きていく力」と「未来に生きる力」
地道な実践、地道な研究から見えてくる子どもの姿、教室の姿があります。それに対応して、教育は考えられなければならないでしょう。そして、その対応は、子ども達の未来を開くものでもあってほしいのです。
私は、「生きる力」を二つに分けて考えています。一つは「今生きていく力」であり、ひとつは「未来に生きる力」です。「今生きていく力」とは、子どもがまさしく今、生きていくために必要としているものであり、そこには、最初に指摘したような、「自分の本当の思いを他者に表現し、また、他者が表現したことを受けとめながら、他者との関係を作っていく力」が含まれている、大きな位置を占めている、と考えます。
自分の思い−うれしさ・共感・悲しさ・つらさ・喜び・批判−をなんとか(ありのままではなくとも)表現すること、それを他者が聞き届けること、完全な共感はあり得なくとも、少しでも共感していこうとする「心の構え」を持ちあうこと、そのことが、生きづらさを感じている子どもたち、それさえも実感しないまま「いい子」や「わるい子」を必死に生きている子どもたちの、「今生きていく力」につながると思います。
金原氏が言うようにテレビの影響かどうかは別として、また、インターネットの急速な発達によるかどうかは別として、多くの実践者・研究者は、この力が弱まっていると感じています。また、教師自身も、先に述べたような教育界の状況も重なって、この力が衰弱しているのではないでしょうか。もし、国語科教育が意味あるものとして生き残るのであれば、この力を少しでも支えていくことが最低限必要だと強く思います。
もちろん、基礎・基本も大事でしょう(ただし、基礎・基本とは何かについての人々の考えは様々ですが)し、「伝え合う力」も大事でしょう。しかし、伝え合うことが、明確に述べたり要点を落とさずに聞いたりすることだけならば、ことばの表層をなであっているだけです。
表現された「ことば」と、表現者・受信者それぞれの「こころ」の中に起こるドラマの、三つの絡み合いは、とても複雑で微妙なものです。現在の哲学は、この「ことば」と「こころ」との複雑で微妙な関係をめぐって未だに果てしなく論争しているぐらいなのです(竹田青嗣(2001)『言語的思考−脱構築と現象学』径書房 参照)。
けれど、私たちは、そんな論争に関係なく、「ことば」と「こころ」のドラマの中に生きています。生きて、喜び、悲しみ、怒り、傷ついています。だからこそ、「ことば」の表層ではなく、「ことば」と「こころ」の複雑なドラマに、教育が、国語科教育が関わっていかなければならないのです。それは、「ことば」と「こころ」のドラマを、「ことば」で整理したり、「ことば」で強制したりすることではありません。教師が、一人一人の子どもの中の、また教室の中の、「ことば」と「こころ」のドラマに、立ち会う覚悟を持つということなのです。
「未来に生きる力」は、今、子どもたちがそれほどその必要を実感していなかったり、「子どもたちに今それが必要である」と教師が認識していないのだけれど、将来子どもたちが社会に出たときに、どうしても培っておいてほしい力です。そこには、「メディアに立ち向かう力」が含まれているはずです。
子どもたちは、今現に活字も含めたメディアに対して、主体的の関わることの必要性を感じてはいないでしょう。しかし、さまざまなメディアに晒され続けている内に、自分で考えることができなくっていきます。立ち止まることは許されないような気がしてきます。
それは、子どもだけではありません。教師も同じです。教師は、どれだけ、「教科書」というメディアに立ち向かっているでしょうか。「教育界の言説」にどれだけ立ち向かっているでしょうか。教師が、大人が、メディア、特に権力的なメディアにどのように向き合っているかが、子ども達のメディアに向き合う姿に大きな影響を与えるではずなのです。
教師が、メディアに立ち向かったとき、そこには教師自身が現れてきます。そのことを通して、子ども達も、メディアに立ち向かう勇気を手に入れ、自分を見つめ直しながら、メディアと格闘していくのです。
国語科教育が、「本当のことばの力」を育てる教科を目指すならば、「今生きていく力」や、「未来に生きる力」を学習者がもてるように、教師が支えていかなければなりません。私たち教師は、これらの力を意図的に育てるような授業を組むだけでなく、日々の授業のほんのちょっとした活動や関わりによって、子どもたちがこのような「力」を育む、環境・状況を作っていかなければならないと考えるのです。
メディアとも他者とも相互交流すること、そこから、自分の思いをいろいろな形で表明すること、それを聞きとどけ合うこと、それが、子どもたちの、そして、私たち教師の「生きる力」を養うことにつながると考えます。
5.さいごに
以上のような趣旨の文章を書いたのは、もう5年も前になります。その後、2回少しずつ中味を変えながらも、私はこの文章をさまざまな媒体に載せてきました。
この5年の間に、何かが変わったでしょうか。2003年7月には長崎で、12才の人間が4才の人間をビルの屋上から突き落とした事件が起こりました。多くの人々が、神戸の事件を思い出したことでしょう。
事態は良くも悪くもなっていません。なにも変わっていません。大人たちの無駄な論争に無駄な時間が費やさされただけでした。
みなさん、自分の頭で考えましょう。自分の心で感じましょう。児言研の授業がどんなにすばらしくても、自分の頭で考え心で感じなければ、その人に「メディアに立ち向かう力」ができているとは思えません。自分がいる場所をまず疑うこと、子ども達と共に教師自身が自分の頭で考え心で感じること。今求められているのはそれなのです。
(この文章は、『学校教育』(広島大学附属小学校)2002年3月号に掲載したものに加筆したものです。)

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コメント

JesterBlueさま、ありがとうございました。

ええ、だんだん理解しはじめています。

自分もどんどんトラックバックすればいいんだということがわかってきました。

これからも、よろしくおねがいいたします!!

こちらにコメントされてるのに気付くのが遅れました。

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もう理解されているようでしたら失礼致しました。

なんだかわからないけど(トラックバックというのがいまいちわからない)、さっそく反応がありました。
これって、相手にどうやって返したらいいんかしら・・・

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