児言態って何?という方に、簡単な紹介を致します。
これから少しずつ更新していきます。
中国四国教育学会レジュメ(抜粋)(2003.11.9.)
児言態の実践と理論の影響力
1.児言態とは
児言態=児童の言語生態研究会は、玉川大学の上原輝男氏(広島大学教育学部出身)を中心に結成され、1968年には雑誌「児童の言語生態研究」が創刊され、現代にいたるまで15号が刊行されている。なお、上原氏は1996年に死去している。
・「児童の言語生態研究」の各号の特集
No.1(1968) 特集 子どもの連想と仮想と
No.2(1968) 特集 子どもは「場」をどう捉えているか
No.3(1969) 特集 国語の力(言語能力)とは何か
No.4(1970) 特集 子どもにとって、"書くということ"
No.5(1972) 特集 子どもにとって、「うそ」とは何か
No.6(1973) 特集 ことばをあやつる意識と力
No.7(1975) 特集 こどもの感情の発達とことば
No.8(1977) 特集 こどもの構えの変革とことば
No.9(1978) 特集 用具としての言語学習のあり方
No.10(1980)特集 音声言語教育の方法を探る
No.11(1982)特集 子どものけんか
No.12(1985)特集 なまいき
No.13(1988)特集 子どもの泣き
No.14(1990)特集 あの子にこの子 子どもの個性への接近
No.15(1997)特集 子どもにとっての時間と空間 (上原輝男先生追悼号)
・ 「児童の言語生態研究 」発刊に際して(第2号からは児童の言語生態研究趣意)
国語教育の実践と研究は、日日ゆるがせにできない永遠の基礎的課題であります。近来、言語活動を重視
し言語能力の増進を要望される時運に従い、一見、国語教育の実践と研究は、活発さを加えたかに見えま
すが、国語教育は技能的となり、読み書き、話し聞く三領域に分割された言語生活形態の学習を専らとす
る風潮さえ生んで参りました。われわれは成育しつつある子どもの言語生態を、正確に見届けることを、
何よりの国語教育の基礎に据え、そこから出発すべきであります。遅ればせながら、感情・思考及び意識
の発達とともにある子どものことばの実態を、調査、研究して、子どもの側からの発言を世に問いたいと
思います。思えば、子どもの言語生態とも言うべき基礎資料を得ることなしに、国語教育の目的と方法が
論じられすぎました。また、われわれ現場人が、それらの基礎資料をどれほど整えて子どもに接していた
でありましょう。国語教育の目的と方法及び実践の確立に資すべき、最初の条件であったと思うのであり
ます。われわれは相互に連絡協力して、この調査、研究を進め、小冊子といえども、発達途上における子
どもの心とことばとの成長並びにその明暗を正確に写しとった貴重な資料を収集して、広く斯界に頒布す
ることにいたしました。
2.児言態の考え方 (児言態メンバーによるまとめ)
(母語とその発達)
「本研究会におけるわれわれは、母国語の習得過程は、人間の生育段階の生態的現象として把握すべきであることを共同の歩調としている。(上原1977)」
「ここにいう言語発達は文字の読み書きだけではない。それをも含め、なおかつ、その対象に向けられる興味の在り方(志向性)、予見予想、論証、判断における気の配り(配慮)等(後略)(上原1977)」
「われわれの研究は、子どもの気の働きや、思い方の変容について、発達的様相を知ることを何よりの急務とした。子ども自身の気の赴くところ、思うところ、思い方、思いの内容以外のところに、彼等たちの自然な言語形成はあり得ないと思うからである。(上原1975))」
「本来、言語は人間の表情・身振り・行為・行動と音声とのかかわり方(無言をも含めて)をいうものでした。ところが文盲退治から始まった学校教育の成果(?)が、文字言語をことばだとばかり人々にびとに思いこませてしまいましたので、人間の感覚や感情、人それぞれの性質や態度とは切り離された、言語知識や言語技術の習得を言語教育と考えてしまったのです。ことばは人間の成育と深くかかわりをもって発達するといっても、よくかわってもらえない現状となってきました。(児言態編1981 p.166)
(母語の教育)
「私たちの仕事は、母国語の教育なのである。子どもの魂の成長と一つになっていくことばを母国語という。小学校教師に課せられた最も大きい負担は、教科〃国語〃のお仕着せではなくてその子どもの母国語発達だと思うことである。(上原1991 p.3)」
「身につけているのが本物のことばだといえるもので、言語教育ということを本気で考えると、その本人の成長段階と一つになっているものを動かすことでなければならなかったはずでした。(児言態編1981 p.167)」
「 感情・思考・構え・言語作業と四分野に、国語の授業を区別して行うのは、子どもの精神発達の土俵をそう限つてみる方が、子どもたちのただいまの問題点を引き出しやすいからである。(上原1991 p.19)」
「われわれに何かと想定させようとする動機づけとしての何かをわれわれはまず見るとしなければならぬからである。この動機づけの何かを、私は構えと呼ぶのである。(上原1977)」
(「イメージ」)
「それ(=1985の共著に至る「子どものイメージ運動」の研究)以後、私どもの関心は、子どもの無意識層の研究から離れなかったといってよい。(上原1990)」
「こどもたちにとって、ことばを発することは、発言にいたる情動が働くからなのであって、情動をことばに置き換えたり、言葉さがしをする作業だとは思ってはおりません。(児言態編1981 p.170)」
「やっぱり、彼等に先行しているものは、ことばよりもイメージであり、そのイメージもこれまでわが身に適用したことがない人間行動のポーズが、あこがれとして、次々見えて来るところに、こどもたちが、より新しく生きてゆく模索があるにちがいないと思うのです。(児言態編1981 p.180)」
「物思う意識の方が先だということは、イメージ思考がさきだからではないでしょうか。(児言態編1981 p.163)」
「イメージが、我々を行動させるのです。実は、考えてみると、現実の中にイメージ生活があるのではないのです。我々のイメージが、我々の現実生活を誘導していると、考えなければならないのだと思います。(上原1997)」
(「トランスフォーメーション」)
「子どものイメージの働きをトランスフォーメーションとしか言いようがないので、トランスフォーメーションと使っております。つまり、その交換、交換する、交換ができるイメージの特徴というのは、それだと思うのです。(上原1997)」
「我々は時間を超越する能力をもっているということができる。(上原1997)」
「いつ、どこで、誰が何をしたかなんてことを、あんまり小学校で言われすぎたために、いつという問題、時間の問題、どこでという空間の問題、誰がっていう人間の問題。こういうふうに我々は意識を分裂させてしまったことが、過ちだったのではないでしょうか。(上原1997)」
(「心意伝承」)
「人の子が親となり、親が子に何気なく教えている躾のことや、また特に小学校の教師が、当然のことのように注意している心の折り目のことなどはそれらは決して我流の発明によらず殊更にいえば、自分の親から、あるいは世間から、伝えられ教えられて来たことを、次の世代に承けつがせている大変な教育力だということができる。(上原1984)」
「教育は教育者と被教育者との関係に於て行われるところからであろう、ある種の能力の伝授もしくは付与だ(ママ)思わせられるところから、教育は日常性からの乖離あるいは日常性からの脱却だと錯覚する。(上原1984)」
「教育の根本あるいは重大事は、たとえていうなら、三つ児の魂百までという、その魂を得させることである」(上原1984)」
「本研究会は、身構え、気構え、心構え以外に、発想のパターンの獲得という大事な心意伝承を深く考えねばならぬとしたからである。(上原1977)」
(引用文献)
上原輝男(1975)「感情教育待望論(その一)人間発言の動機」『児童の言語生態研究』No.7
上原輝男(1977)「感情教育待望論(その二)母国語学習指導の支柱”構え”の提唱」『児童の言語生態研究』 No.8
上原輝男(1984)「感情教育待望論(その五)心意伝承としての国語」『児童の言語生態研究』No.11
上原輝男(1990)「感情教育待望論(その八)”夢”作文と個性−その通性を求めて−」『児童の言語生態研究』No.14
上原輝男(1997)「日本人のイメージの世界−かいまみの世界−」『児童の言語生態研究』No.15
上原輝男監修(1991)『小学校 国語の授業はこうする』学芸図書
児童の言語生態研究会/上原輝男編(1981)『はなぢがナンでぇ −子どものことばの記録スナップ−』童心社
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