最近またとあるところで、ある人と知り合いになりました。といっても向こうは知り合いと思っていないかもしれません(後述)。
つまり、ネットで知り合った、というわけです。
私はネット上で自分の情報の8割はさらしてます。もちろん、残り2割は絶対に晒せないものです。その2割が自分のアイデンティティの中核といえるかもしれません。
そしてその2割と上辺のネットで晒している8割とは、分離はそれほどしていません・・・でした。
しかし、ネットでふらふらするようになってから、この二つの乖離は、解離に近づいていて、二重人格性を帯び始めています。
というのも、ネットでは、2割の方で知り合う人と、8割の方で知り合う人がいるからなんです。
この2割の方で知り合う人は、だいたい、そでもふれずに別れていくものですが、そのうちの1%ぐらいが8割の私に触れるようになってきます。
というか、その1%の人には何かを感じて、私の8割も晒すことをする、というわけです。
そうすると、とっても不思議な事が起きます。
通常の生活では私の8割で付き合っているだけで、永久に2割とは関わり合わないのですが、さきほどの1%の人は、私の10割ーーーはおおげさでも、8割は軽く超える部分を知っていることになります。
今こういうノートを作っています。外で食べたごはんなんかの写メとメモを書き込んでいます。
めんどくさがりの私がこんなことができるのは、ふたつのおかげ。
一つは、これ。
LGプリンタ
前にチェキを使っていたのですが、シール式の写真でなかったので、いつの間にか使わなくなりました。
これはシール式なので、手軽にノートに貼れます。
後もう一つは、このノート。
ノート
これをもらったんだよね。
この二つが、「外食をなんかノートにしたい!しかも気軽に!」という私の長年の思いを実現させてくれました!!
いやあほんとに気軽にできるし、見返すと楽しい!!
ちょっと、女子の「こまごまメモ」を書きつける気持ちがわかります。
最近、残すことはとても大事だな、でも、デジタルは、ストックにはふさわしくないな、と思い始めましています。(見直すためのストック、ね。倉庫のためのストックは、デジタルはピッタリ)。
アクティブストックとしての、アナログに、今後注目していきたいです!!!
よい実践とよい論文──表現者の活動の自由へ
細川 英雄
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
世の中には,よい実践か,よい論文か,という二つの基準がある。
一般論としては,
いるが,いわゆる研究業績が評価される世界においては,
よい論文が決定的だと思っている人が多いようだ。
しかし,
た身としては,そんなに簡単に,
ないという気分になっている。
まず,よい論文を書いているという人の実践は,
いからだ。だいたい,論文を書くことを第一にしている人は,
人に見せようとは思わないからだろう。
このあたりにすでに論文を書くということのエゴイズムが潜んでい
論文を書くことが目的化している人にとって,
ことなのである。そういう人は,
開することになれば,きちんとした教案をつくり,
践を行うだろう。しかし,それは,よい実践でも何でもない。
僕に言わせると,よい実践というのは,
ればならない。
・他者を管理せず,他者から管理されない自由を尊重すること。
・すべての解決に自己と他者の対話を尊重すること。
・
この場合の自己とは,
指す。つまり,それぞれの立場で,この3原則が実行されること,
重要だ。当然,実践活動そのものは,相対化され,
同時に,その活動そのものが,
実践である。
考えてみると,こういう実践を記述し論文化するのは,
だろう。たとえば,教案をつくるという行為そのものが,
目化し,それを順序だてるという作業だから,僕の言う「
わない。
このように考えると,本当によい実践をしている人は,
この場合の「よい」とは,仮説を立ててそれをデータで検証して,
な仮説検証型の論文ではないことはもはや明らかだ。
るさまざまなことばのエネルギィーをどのようにしてやりとりに巻
れを対話化しながら,コミュニティのあり方について,
くような,創造的な試みは,
あえて言えば,課題の提案・提唱に近いかもしれない。
具体的に描くことはとても創造的な仕事だと思う。
本当に,よい実践をしていたら,そういうエネルギィーは,
からほとばしり出て,
ネルギィーを表現することが,その人にとっての存在なのだから,
という形式にこだわること自体,
必ずしも論文という形態をとらずに,その人の活動は,
とって実行されるにちがいない。もちろん,その際に,
を問うことにはなるだろう。だからこそ,一口に論文といっても,
とを考えるような土壌がその論文掲載誌にあるのかどうかというこ
るのだろう。むしろ,
要になっていると思われる。
論文か実践かという二元論は,
いものだと思う。つまり,
している人は,本当は実践には近寄りたくない人たちであるし,
論文にならないと嘆く人は,本当によい実践ができないから,
ているのではなかろうか。実践とは人間の活動そのものであるし,
のは,その人の表現形態のほんの一部分に過ぎないからだ。
表現者の自由は,もっと過激に認められるべきであろう。「でも,
・・・」という反論がきっと出るに違いないけれど,あなたの,
では・・・」という発想そのものが,
くべきだろう。
全国大学国語教育学会の課題研究のスライドファイルです。
下記のアドレスを、使用しているブラウザのアドレス バーにリンクを入力または貼り付けるようにしてください。
6月末まで公開します。
https://www.dropbox.com/s/il92uo47cwo0hoc/%EF%BC%92%EF%BC%90%EF%BC%91%EF%BC%95%E8%AA%B2%E9%A1%8C%E7%A0%94%E7%A9%B6.ppt?dl=0
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 |
12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
最近のコメント